汝の信仰なんぢを救へり

マルコによる福音書5章25~34節
十二年間長血を患っていた女が、救いを求めてイエスにうしろから近づき、衣に触れた。病はたちどころに治った。イエスはそれに気づかれ、「私の衣に触れたのは誰か」と問うた。女は恐れおののいて進み出て、みまえにひれ伏し、すべてありのままに申し上げた。イエスは女に言った「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心してゆきなさい。」

これはとても印象的な出来事です。(多くのことを示唆しています)
イエスは、いくつかの場所で、何人かの人に対し、「奇跡」を行いました。

これらの記述は、イエスを救い主、神の子である。そう信じることによって奇跡が起こったということです。そして人々はイエスを讃えました。(まるで、超能力者であるかのように) 多くのクリスチャンたちは、救い主である「イエスを信じなさい!」という。

「奇跡」という救いは、イエスを証しするため、『印』として行っていたことでもあります。

イエスが人類の罪を背負い十字架についた(代理贖罪)。「とりなし」による救い。これも、それを信じることによって救われるのでしょう。実際に、罪深い人間は、「とりなし」なくして、神のもとに帰ることは出来ません。天国に入りたいという一心で信じていたのかもしれません。

ただ、信じて受け入れた後、人々はどういう信仰を立てるべきだったのでしょう。イエスの何を信ずればよかったのでしょう。心の中心に何をおくべきだったのでしょう。本当に伝えたかったイエスの「信仰」とは何だったのでしょう。

どこかの宗教団体に所属して、言われたとおりにすることが信仰なのでしょうか。
私は、信仰とは「神と私の一対一の関係」であると思うのです。
神を宿し、自分の中心に愛をおくということが大切であると思うのです。
真に価値あるものは、「愛」なのですから。愛と一つになることが救いなのです。
誰かに従い、どこかに属することが目的ではありません。

信仰によって、自分の内に「愛」を取り戻すことができたなら、それが救いであると思います。
天国はそこから始まるのです。

〇 信仰の自立

私は信仰とは、自分の内に神様や仏さまを宿すこと、愛と慈悲を心に宿すことであり、神様と私(仏さまと私)という、一対一の関係を築くことにあると思っています。人に依存したり、誰かが間に入ったり、人からとやかく言われるようなことではありません。だから、大事なのは「信仰の自立」です。人や組織を介するのではなく、自分が直接、神(仏)との関係を築くことが重要なのです。人に付き従うのではなく、自分の内に愛を宿し、主体性をもつことが大切なのです。信仰を確立し、自立するのです。

切れてしまった関係(神との関係)を取り戻すことが、「宗教」=Re-ligion(再び‐つなぎ合わせる)のなすべきことなのです。それは愛を取り戻すことでもあります。

初めは人や教会から学んでいったとしても、やがては自立することが必要になってきます。

信仰はあくまでも個人の自由に属することです。(信教の自由)
「信仰の自立」を奨励し、その人の主体性を認め、お互いを尊重することを望みます。(皆、ぞれぞれに、一生懸命自分の道を歩んでいるのです)故に私は、人がどこの宗教、どこ団体(組織)に所属しているかを問いません、些細な教義の相違を指摘したりも致しません。あくまでも個人を見ます。どの道をたどるかは基本的に自由です。
人それぞれ個性があるのですから、多様であって当然です。

日本では、所属によって人を判断する傾向があります。人よりも団体の方を見て判断することが多いのです。(確かに影響を受けている可能性はありますが)信仰は個人のものですから、もっとその人自身を、個人の信仰を見るべきです。偏見があり、誤解を招くくらいなら、どこにも属さないほうがいいのではないかと思うくらいです。人目を気にせず、もっと自由に信仰について語り合えるような時代が来ればいいなと思います。

アメリカで偏見にさらされ、異端視された内村鑑三が、日本に帰ってきて「無教会主義」を貫いた気持ちも、なんとなくわかるような気がします。儀式や形式ではなく、本当の神との交わりを求めたのです。内村鑑三は真のエクレシアを求めました。エクレシア(ギリシャ語で教会を意味する)とは、兄弟姉妹として信徒が集う場。ともに祈り、御言葉を受け、主を賛美し、礼拝する場であると言います。

人は共感を求め、同じ思いを持つものが集まると、支え合いになります。
「信仰の友」をもつということで励みになります。だから、教会や寺院、グループに入るのも楽しいかと思います。それは自由に選べばいいのです。学んだことの分かち合いはしますが、強制は致しません。そして、信仰の友に対しては、賢治が言ったように「僕たち、しっかりやろうね」と言いたいです。それぞれが自立して、ご自分の信仰を全うしていって下さればいいのです。教会はやがては、信仰の友が集まる「友の会」「勉強会」「いっしょに祈ろう会」になるのかもしれません。

それぞれの宗教・宗派には、細かな教義や教則があるのでしょう。(決まりごとが多いのです)
細かいことや、難しいことは私にはわかりません。経典の一字一句を覚えているわけでもなく、読んでいないもの、理解していないものも多いです。相違点を指摘されても答えられません。
ただ、私は真理を求める時、「神は愛である」という一点から考えるようにしています。神は愛である。本当の愛である、真の愛である、全き愛である。というところから考え直すことが真理に近づく鍵であると思っています。すべてはそこから始まったのですから。

〇 愛によって「主体性」をもつ

信仰とは、徹底して自分と神との世界であり、神と一つになり、愛によって「主体性」をもつようになることなのです。愛によって生きたものになるのです。

だから、所属の問題ではない。他人が介在すべきことではありません。人が責任を持てるようなことではないのです。自分で(関係を)築いてゆくべきことなのです。最後に行くとき(死ぬとき)は一人なのだから。ともにあるのは「神と私」、信仰だけなのです。まわりが口を出すことではありません。他人ができるのは、合言葉で「僕たち、しっかりやろうね」と励まし合うくらいです。
人や組織に頼ったとしても、ともにどこまでも行くわけではありません、仕方のないことなのです。
私は私の信仰によって歩む、そのような決意、信念が必要です。

イエスは「汝の信仰が、汝を救ったのです。安心してゆきなさい」と言われました。それは、まわりのことは関係ない、気にしなくてもいい。安心しなさい、ということです。神様とあなたの直接の関係で救われたのです。それを大切にしなさいということです。

十二年間長血を患い、辛い思いをしてきた。その女の思いが直接、神に通じたのです。だから神はイエスを通してその思いに応えました。「衣に触れる」という行為をもって、病気を治すという奇跡を起こしたのです。イエスは初めそのような事情を知りませんでした。自分から力が抜けていったので気づいたのです。だから「私の衣に触れたのは誰か」と問うたのです。イエスは前もってこの女の話を聞いて、詳しく診察して、治療を施したのではありません。事情を知っていたのは神です。神がイエスを用いて(衣に触れるという小さな条件で)、その女に応えたのです。これは神とその女との関係、信仰によって起きたことなのです。だから、あとで女からありのままの説明を聞いたイエスは、心配はいらない、神があなたに応えたのです。「汝の信仰なんぢを救へり」と言われたのです。

この一連の出来事は、多くのことを私たちに教えます。
「信仰」とは、神と私の直接の関係なのだということです。そしてこの場合、イエスを通して(衣に触れるということ)神が働かれたということです。

現実的なものの見方をする人なら、なんで衣に触れただけで病気が治るんだ(ちゃんと診察したわけでも、治療したわけでもないのに)、こんなのインチキだ、詐欺だ! 絶対裏があるに違いない。と言うでしょう。

しかしイエスは、心配はいらない。神がなされたことなのだ、という答えでした。

信仰をもつという一点においては「自力」でなくてはなりません。
もちろん信仰へと導いた神の存在(他力)はありますが、あくまでも神と私の関係なのです。関係を築くためには、自力も必要なのです。神が喜ばれるのは、信じることと、真心です。

信仰は、神と私の一対一の関係です。愛において神と一つになることができます。(即身成仏)
神は愛である。その愛と一つになるのだから、私も愛となるということです。
愛とは、人を幸せにしようとする最大の主体性であります。これ以上力強く、喜ばしく、安心でき、心強いことはないのです。愛が私の中で主体性と力と平安をもたらしているのです。

〇 最後に行くところ(まとめ)

救いとは、最終的に神を宿し、神と一つとなり、自分自身が「愛」となることなのです。
許されて、どこか煌びやかな国へ入る、ということではありません。

奇跡よりも大切なことが、神と一つになり、愛を持つことなのです。愛からすべてが始まります。
だからイエスは「愛」を教えようとしました。自分自身の内に宿る愛が、人々を救い、幸せをもたらし、自分をも救っているのです。愛を有するということは、死んでいた者が、生きた者となることなのです。

神と一つになり、神様の愛をもって愛し合う世界、それが天国なのです。
最後に行くときは、神と私のみ(だから、神との関係が大切)、
愛となって、愛の世界へ行くのである。

どんな世界が待っているのか。あの世のことは、あの世に行ってからのお楽しみです。
それこそ、神(愛)にゆだねるべきことなのです。

〇 愛の国(神の国)

ここからは、半分くらい私の空想(妄想?)であると思っておつきあい下さい。

マタイによる福音書 631節~33
「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」

「神の国」とはどのような国なのでしょう。
聖書では、イエスはキリスト(救い主)であるとともに、「王の王」として来られると書かれています。
だから、天国はイエスを王の王とする、ピラミッド型の王権国家(君主制)になるのでしょうか?

神が宿られるのは王(イエス)お一人であり、その王を神のように祀り、服従してゆく王国となるのだろうか。もちろん独裁者ではなく、愛をもって治めるのであろうけれど、意思決定はトップダウン、ピラミッド型の支配体制になるのだろうか。と、天国について疑問を持っていました。人々は、全てを王にゆだね、つき従ってゆくだけなのか・・・

イエスは、神と一つになり愛をもたらす、信仰の模範を示されている。「愛の教え」を説き、愛の模範が示された。
我々はそれを学んでゆく過程にあるのです。だから、人々が信仰を取り戻すまでは、しばらくは「主よ、主よ」と言いながら、ついて行く時代があるのかもしれません。

カトリックは伝統を重んじ、信仰の模範を示そうとしている。これも大切なことだと思います。

しかしイエスは、初めはご自分を「神の一人子」であると言われていたが、いつまでも自分のみが神の子であるべきだとは言っていない。一人一人が神の宮であり、神を宿す。神の子となってゆくと言われている。だから、みなが愛の主体者となってゆくのです。

黙示録 21章3節には、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐい取って下さる。」と書かれている。神は、民の中に住まれるのだ。

一人の人にのみ神が宿るのではなく、みんなに宿るようになる。みんなが愛をもって愛し合うようになる。だから、みんな世の中に対し主体的に働きかけてゆくし、それととともに、他者も認め、他者の意見も尊重するようになる。(だって、どの人にも神が宿っているのですから)

国民の主体性によって生み出される国。それは、民主的な国(国民主権の国)になるだろう。一人の人間にだけ神が働くのではなく、神が民とともにある国なのである。

たった一人では、神のすべてを顕しきれない。しかし、みんなで表現すると、より神のご意思に近い答えが得られるかもしれない。その為に大切なのが、土台となる「信仰の自立」なのだ。一人一人が神を宿し、愛となり、主体性を発揮すること。そうすれば民主的な理想の世の中が誕生するのではないかと思うのです。

〇 主権は愛にある(神の義)

国民の自立が民主主義の基礎。だから、自由が保障されねばならない。

明治維新の後、国民の自立を促す「教育」が行われてきた。『学問ノススメ』で有名な一万円札の顔にもなった福沢諭吉の言葉に、「一身独立して一国独立す」というものがある。一人ひとりが独立した人間であって初めて、国として独立できる。民主主義が成立する。自分で考え行動できること「一身の独立」によって、「一国の独立」が可能になるということである。

同じように、一人一人の信仰の確立があってこそ、民主的な神の国が実現するのだ。神の国の基礎は、信仰の自立にある。(自由だからこそそれができる)「信教の自由」は絶対に保障されねばならない。
主権は神を宿す国民にある。もっと言えば、民の内にある「愛」こそが真の主権なのである。
主権は愛である。愛によって築かれた国。だから愛の国、天国となるのである。

国民一人一人の内に宿っているのは「愛」なのだから、この国の主権は「愛」にあると言うことができる。だから「愛の国」(=天国)なのである。

「愛」は与えるもの。喜びを与え、人に幸せをもたらすもの。能動的で主体的なものです。信仰の自立は、人々に愛を発動するという「主体性」をもたらす。そして、その主体性が民主的な理想の国を造るのです。

人々に幸せをもたらすという目的が同じなので、対立はしない。協力し、高め合う結果になる。意見が異なる場合は、より良い方向に修正されてゆく。(動機が愛だからである)
神を親として、子である人間は、兄弟姉妹として仲良く話し合って決める。神の願いの下で、それぞれが自分の個性を発揮し、長所を生かしながら、助け合って生きるのである。親は、子供たちが話し合って決めたことを良しとするだろう。自立を喜ぶのである。

このように、成熟した「神の国」は、一人一人が神(愛)を宿すという信仰のもと、民主的な世の中になると思う。
愛を宿す民によって築かれる国、愛の国である。
神は初めであり、終わりである。初めは「愛」であり、終わりにあたるのがこの「愛の世界」なのでしょう。

愛がどのような社会を生みだしてゆくだろうか・・・私はそれを夢見ている。

〇 仏教が目指す国

仏さまの国、「浄土」についてもまた同じである。
「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さまに帰依し、一人一人が慈悲の心を抱き、仏心をもって生きる。(即身成仏ともいえる)その一人一人が浄土を築いてゆく。

しかし多くの人は、極楽浄土は死んでから行くところだと思っているようだ。(だから葬式仏教となる)
「阿弥陀経」などを読むと、極楽浄土がどのような世界なのか、阿弥陀さまを中心にお迎えが来る様子など、煌びやかに、緻密に描写されている。それぞれの経典に基づいて供養がなされるのであろう。

現実的に見たなら、この世はどのように変遷してゆくのだろう。
仏の心を抱いた人間は、その思い(慈悲)をもって語り、行動する。主体性をもった人間となる。
「福祉仏教」の活動のように、仏の教えを社会で実践してゆく、人々の幸福(福祉)につなげてゆくというのも素晴らしいことだ。そして、そのような心を持った人々の集まる国は、仏心によって築かれる民主的な国にならざるを得ない。仏は人の心にこそ宿るべきものなので(即身成仏)、その国は、仏を宿す民によって築かれる「仏国土」となる。慈愛の国、この世における「浄土」なのであろう。

神も仏もどちらも民の中(内)に住まれる。そして、愛として、慈悲として働かれる。そこがポイントなのである。遠い、高いところから指示をするのではない。民と共にある。内に宿るのである。だから民主的な世の中にならざるを得ない。(一人一人が神とともに主役になれる)

私は欲張りなのか、贅沢なのか、浄土でも神の国でも、それは文化の違い(表現の違い)であり、本質的に変わらない。どちらにでも馴染めるような気がする。今はまだ夢のような国の話であるが。仏さまの心、神様の心の中では「すでに成った」、成就している国、約束の地なのかもしれない。あの世に行ったら、その両方を巡回して見てみたい。(もし、行けたらの話ですが・・・)

長い歴史を経て人類は、信仰を持つ人持たぬ人、善人悪人色々いて、神を信じない人もいるけれど、それでも無意識のうちに心の中に「愛」を少しずつ育んできた。わずかではあるけれど世の中は良い方向にむかっているような気がします。神様が心の内に働きかけているからでしょう。良心が目覚めてゆくのです。

でも、まだ越えられない壁が多くあります。戦争や貧困、格差や差別、偏見もあります。孤独の中で死んでゆく人も多いのです。だからやはり、宗教の融和と復興は望まれることなのです。

〇 国のカタチ

国のカタチ(国体)が、氏族社会や封建主義、君主制、ファシズムなどを経て、現代が、民主主義に至らんとしているのは、天上においてそれが理想形であるからかもしれません。知らず知らずのうちに「天国」の形に近づいてゆこうとしているのです。

マタイによる福音書 6章10節
「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」とイエスが祈られたとおりです。

あと、決定的に違うこと、残している課題は、一人一人の国民の中に神を宿すということ。「愛」を宿すということです。そうすると、民の中にある「愛」を中心とする民主主義になるのではないかと思います。主権は「愛」にあるということです。愛の国が実現します。

国民の質が国家を決める。宗教の役割、果たすべき使命は絶大です。

今のこの時代に、政治が中央集権の王国時代に逆戻りするということはありえない。だから、宗教の世界でも、いつまでもキリスト王国時代が続くことは考えにくい。やがて信仰の自立が求められ、神が民と共に住む、本当の愛の国になる時がくる。民主主義は国家の成熟した姿なのである。その方が、今の時代にマッチしている。

「政教分離」に関して・・・
信仰は、個人の心に関することであり、神と私の一対一の関係にある。そして、「信教の自由」は憲法によって各個人に保障されている。これに対し政治は、現実的な社会課題に取り組み、領土や人民を治める政のことを言う。両者は活動において対象とする分野(役割)が異なるのである。だから、「政教分離」の原則は保たれるであろう。
ただし、「心・技・体」が一体となってこそ名人と言われるように、宗教・政治・経済がバラバラではいけない。役割分担は違うかもしれないが、心と体とその行いは、一貫性があり、繋がりがあるのが自然な姿である。だから、良き心の姿勢、心の在り方を求める宗教は大切なものなのだ。その上で、技(政治)を磨き、豊か(経済)になればいいのである。

〇 愛は世界を救う

民主主義の国家というのは、個人の集合体である。国民がどういう意志を持つかは、各個人にかかっている。自立した個人が「どういう個人になるのか」、それがやがて国の意思を決定づけることになる。その個人を見たときに、自己中心となるのか、信仰をもち神(愛)を中心とするのかで大きく変わっていく。

自己中心とは、たとえ良心的であっても、身近な人の幸せを優先的に考えるから、離れた人、利害が異なる他国とは対立したり戦争になったりする可能性があるのだ。(いい人ばっかりなのに、なんで戦争になるんだろう。その理由はこういうところにある)すべてを等しく愛する、全き愛の神に準じる必要があるのはそのためである。

自分の得意な分野で、離れた人・遠い人も助けてあげることです。そしたら、その少年は目を輝かせてくれるでしょう。(風に立つライオンのように)
そして、それは単に距離だけの話ではない。一人の不幸な男の子の為に、一生を捧げる。というのも悪くない。
ましてや、その子が大切な自分の子だとするならなおさらである。愛になればいいのである。

喜び溢れるその目の輝きは、きっと宝物になる。

個人が主体性を発揮するためには、自由が保障されていなければならない。民主主義は、「自由」であることを前提条件に成立する。
そして神の国は、個人が神を宿すことの自由、「信教の自由」が保障されてこそ成立するのだ。もちろん、無宗教であることも認める。

神は一人一人、個人の内に「愛」として働きかけられる。
その人が「どういう人間になるのか」に大きな影響を及ぼす。

神のみ旨は、個人の心を基点として進められる。
「汝の信仰がなんぢを救い、そして世界をも救う」ことになるのだ。
それは、愛はあなたを救い、世界を救うと言っているのと同じである。神は愛なのだから。
『愛は世界を救う』とはこういうことなのだ。

信仰を持つことは、神を宿すこと、神は愛なので愛を宿すことになる。
だから結果、愛は世界を救うということになる。あなただけでなく、世界を救うことになるのだ。
神を宿すということは、それほど素晴らしいことなのである。

「汝の信仰なんぢを救へり、そして世界をも救へり」
神があなたを救い、世界を救おうとされているのである。

一人一人の心→信仰の自立→愛による主体性→愛を中心とする民主主義→愛の国(主権は愛)→愛の世界(天国)

仏教徒が多い国では、「慈愛の国」(浄土)となって現れるだろう。
他宗教においても、それぞれの「愛の国」を創るだろう。
そのように、浄土や天国が入り混じった「愛の世界」になる。呼び名は違うけれど、神の目から見たなら、一つの愛の世界が実現してゆくのである。

〇 戦争について(神の戦い)

無神論・無宗教の人でさえ、その人なりに愛をもって生きている。知らず知らずのうちに神が働いているのである。自覚がないだけだ。ただ、「我」が強い分、自分の考え・欲望(煩悩)によって抑え込まれることが多い。神様はその愛を発揮できない。だからその人の心が闘いの場になっているのだ。

迷っている人に対し、「心の声に耳を傾けなさい」というのは、神に通じるためである。

戦いの最前線は、実は皆さんの心の中にあるのだ。神様は何もしていないのではない、常に愛として働き、戦っているのだ。神の戦いは武器をもって殺し合うことではない、一人一人の心の中で戦っているのだ。「愛」をもって戦っているのだ。愛が勝利したとき、戦争は終結する。その人にも世界にも平和が訪れる。

戦争を終わらせたいと思うなら、イエスが言うように「迫害する者の為に祈る」ことである。その人の心の中で愛(神)が勝利を収めたなら、戦争は終結に向かい、和解の日を迎えるだろう。最前線は人の心の中にある。そこで決断がなされる。

だから、敵国の元首〇〇〇さんの為に祈ればいい。その人の心の中で「愛が勝利をおさめますように」と。それは、両国を救うことであり、その人をも救うことになるのである。

独裁者は必要ない。強国のリーダーが覇者となるのでもない。
主権は「愛」にあるべきなのだ。愛を宿す世界人たちが世界を動かすのである。
そして、神は信仰を持つ民主主義の国「愛の国」、国と国が助け合う「愛の世界」を祝福されるだろう。

〇 私は何をすればいいのだろう

とりあえず、これでパールバックから与えられた宿題(悟らなくてはならないことがあるという)は、ひとまず、私なりに答えを得たような気がする。さて、次は何をしてゆこうか?
年をとってしまうとできることが少なくなり、やることがなくなり、何をしたらいいのかわからなくなることがある。

94歳の山折哲夫さん(宗教学者・思想家)は、妄想三昧の日々を楽しんでいるらしい。
特に、朝4時・5時の夜明け前の時間帯、静寂(しじま)は空気も澄んでいて、妄想するには絶品であるとのことです。散歩(歩くこと)も好きらしい。松尾芭蕉と良寛さんを愛された。

それもまたいいかなと思う。

神は愛である。「愛」ならば、何をどうしたいだろう。と祈り考えてゆくことである。
愛は主体的な力を持つ。やりたいことはたくさんあるのではないか。愛を深めていくことが大切である。愛に立ち返って考えてみれば、何かお手伝いできることがあるかもしれない。協力できることは、協力してゆこう。

そして、人はその愛(神の愛)にどう応えてゆけばいいのか。神にお返ししてゆくことを考えてみたい。
神に喜んでいただくために美を返し、賛美する。神が喜ぶことは何だろうと考えてゆく。そうしたら、やりたいこと、やるべきことが見つかるのではないだろうか。

仏さまが喜ぶことを考えてゆくのと同じである。
「慈悲の心」は何を求め、何をしようとするだろう。それを考えるのである。そして、仏さまの大悲を癒して差し上げることを考えるべきである。報恩感謝の行いをすべきである。

小さなことでもいい。きっと、私にもできることが見つかるはずである。足るを知り、つつましく、感謝しながら生きることも大切である。そして、神によって与えられた自然を大切にする。神様が創造した「美」なる世界を、もう一度足を運んで見渡してみたいと思う。

2025.12.9

【追記】

60歳で区切りをつけ、パールバックが残した宿題を果たすため、宗教に取り組んできました。

神社やお寺巡り、西国三十三か所の観音さま巡礼、キリスト教や仏教の勉強、聖書やお念仏の教えを学ぶこと、散歩しながらも思索を重ねました。まだまだこれは一生涯取り組むべきことなのだけど、3年間で一区切り。大雑把ではあるけれど、一つの答えに至ったように思います。

でも「愛」という一言、「慈悲」という一言を深めるだけでも、この先やるべきことはたくさんあるのだろうと思います。それは継続中ということで・・・

とりあえず、今まで学んだことはホームページ『天真爛漫』の心の羅針盤に掲載しています。
これからは、ともに励まし合う、信仰の友ができるといいなと思っています。ご意見・ご感想をお聞かせください。

皆様の歩みのそばに愛があり幸がありますように。