幸せは何処にあるの

〇 本当の幸せ

小説『銀河鉄道の夜』で、ジョバンニは「ほんとうの幸せってなんだろう」と問いました。
宮沢賢治は、ずっとこのことを問い続けてきたのでしょう。

簡単に聞こえて、難しい問いだと思います。
人はみんな幸せを求めて生きていますが、その幸せが一体何なのか、人によって答えが違い、ゴールが異なるのです。価値観の違いと言いますか、大切にしているものが違うのです。
「好きなことをすればいいじゃん!」「やったもん勝ち」と言う人もいるかもしれません。でも、本当のところはどうなのでしょう。

賢治は、本当の幸せは「みんなの幸せ」だと言います。
自分一人だけでは幸せになれない。みんなが幸せになれなければ喜べないということでしょうか。
でも、そんなことってできるのでしょうか?
小さなチームなら、そのチームが優勝すれば、チームのみんなは大喜びです。でも、世界中の人が、一人残らず幸せになることなど、ありえるのでしょうか。

結局、多数決で決めるということでしょうか。(少数派は不幸なまま)
勝ち負けや、運不運で決まるのでしょうか。

出来もしないことを求め続けるということは、永遠に幸せになれないということでしょうか。
だから人は、それぞれに「小さな幸せ」(自分の幸せ)を見つけて、周りから何と言われようと、自分の価値観に基づいて、それぞれの生き方をしているのでしょう。「自由」ですから、誰も口出しすることは出来ません。

それでも、この悲しみの多い世界を見ていると、喜びはしゃいでいる人たちが、白々しく、虚しく感じてしまいます。「本当の幸せは何処にあるのだろう」と、再び問いたくなるのは私だけでしょうか。

これは、信仰や価値観、生き方にかかわる問いなのです。

〇 今のこの時代

今のこの時代、この世の中に、真に幸せな人は一人もいないのではないかと思うことがあります。

皆さんの中には、「私はこんなにも幸せです」と言われる方がおられるかもしれません。才能に恵まれ、裕福で、バラ色の人生を送っている人もいるかもしれない。確かに、本人にとってはそうなのでしょう。しかし、正直に言わせてもらうと、それは、つかの間の、限られた狭い範囲における、小さな幸せ(小さな自己満足)であると言わざるを得ません。

自己中心的に物事をとらえ、自分と自分の周りだけ、たまたまラッキーで(幸運に恵まれて)その場が幸せに包まれているだけなのです。心の底から喜べる状態ではありません。言葉が悪いが、どちらかと言うと「ちょっとずるい幸せ」ではないかと思うのです。世界には多くの人がいて、中には悲しんでいる人や犠牲になっている人が沢山いる。よく見ていないから(見えていないから)、幸せでいられるのです。でも気づけば、心のどこかに「うしろめたさ」があるはずです。

世界は救われていません。今も戦争をしている場所が数多くあるのです。犠牲者は山のように出ています。貧しい人はたくさんいます。飢えに苦しむ人、差別や格差に嘆く人もいます。同じ人間であるにもかかわらず、ある人は飢えて死にそうだし、戦火におびえる人たちもいる。あるいは病気や障害に苦しんでいる人もいるのです。

そのような人たちを横目で見ながら(見えないふりをして)、自分たちだけの幸せに浸っているのです。知っていながら、他人事として済ましているのです。生きていくためには仕方のないことかもしれませんが、人は都合よく心に仕切りを設け、自分たちを正当化するのが上手になったのかもしれません。

今の時代、ネットで世界中の情報が瞬時に伝わります。地球上全ての人が隣人なのです。すぐそばで人々が苦しんでいる。倒れて死にそうなのです。にもかかわらず、「私は幸せです」と言って、有頂天に喜べますか? 心の奥底では、これは本当の幸せな世界ではない、ということを知っているはずです。

イエスは、「汝の隣人を愛せよ」と教えました。
世界は狭く、身近なものとなりました。みんなが「隣人」だと言える時代が来たのです。イエスの言葉の如く、恩讐を越えて、みなが隣人を愛すれば、世界平和が実現しえるような時代となったのです。本当の愛が問われる時代なのです。

〇 神様は泣いている

神様は泣いているだろう。(神様は人類の親であるから)その心は悲しみでいっぱいのはずです。
もちろん、一人一人の幸せを願っているから、喜んでいる人を責めたりはいたしません。ささやかな幸せに浸ることは悪いことではない。神も、いずれみんながそうなることを望んでいるのです。感謝するとともに、(自分たちだけで)申し訳ないと思うのが、正しい感情だと思うのです。

神様の心から悲しみを拭い去ることは、まだまだ出来ていない。だから本当の幸せは、まだ遠いと言わざるを得ません。手放しでは喜べない状態なのです。仏教の世界では、仏さまの心は「大悲」であると言われています。

本当の幸せは、世界を見つめる神様や仏さまが安堵し、微笑むような幸せでなくてはならないのです。

でも、こんなことを言うと、思い詰めて、自身を追い込んでしまう人がいるかもしれません。できないこと、無理なことをせよ、というわけではありません。人にはそれぞれ与えられた役割・使命のようなものがあるのです。祈るようにして、他者を見守って、できることをすればいいのです。
我々は、自分に与えられた十字架を背負って、乗り越えてゆくべきなのです。(使命が大きい人ほど、重い十字架を背負うことになる)

さだまさしと大沢たかおがタッグを組んで制作した『風に立つライオン』という映画がある。
ケニアに派遣され現地医療に従事されていた柴田紘一郎という実在の医師のエピソードをもとに、さだまさしが原作を書いた。企画と主演は大沢たかおです。
主人公、島田航一郎医師は、平穏な故郷の幸せを捨ててアフリカ(ケニアのナイロビ)へ赴き、戦場の近くで苦しむ、怪我をした子供たちの治療に全力を尽くした。純粋な彼の心は、本当の幸せがどこにあるかを探し求め、ライオンのように自身を奮い立たせたのである。彼にも悲しみはたくさんあったであろう、にもかかわらず、彼は心の中で何を良しとしたのでしょう。(楽に生きようと思うなら、そういう道もあったはずである)

宮沢賢治が求めた「本当の幸せ」も、みんなの幸せだった。
“デクノボウ”と呼ばれてもいい、人々の為に尽くしたかった。法華経を信仰しながら、「僕たち、しっかりやろうね」と言いました。

〇 奇跡は起こらない

信仰を批判する人は、神がいるなら何故人間を救わないのかと問う。
「神がおられるなら、その万能の力によって戦争を終わらせてみよ」と言うのである。
『奇跡』によって戦争を終わらせ、物を与え、病気を癒したら、それで解決するではないか、と思う人がいるかもしれない。だが、表面だけ繕っても、根本的な解決にはならない。心が変わらなければ、何も変わらない。次から次へと奇跡を要求し、奇跡に頼るだけである。心は変わらない、愛は取り戻していない。

イエスの時も同じだった。
イエスが十字架に磔にされ血を流していたとき、人々は、「お前が神の子で、救世主(キリスト)であるならば、神に頼んで、まず自分自身を救ってみよ」とののしり、嘲笑った。
イエスは無言であった。すべてを甘んじて受け止めた上で、許し、愛する道を選ばれた。重荷を背負い、それでも愛そうとすることにより、真の愛を示したのである。

イエスは、『印』として奇跡を起こした時期もあるが、それですべてを解決できるとは思っていなかった。奇跡でかたが付くのであれば、十字架にかかる必要などないのです。イエスが示したのは「愛」だけでした。愛によって救おうとされた。そこにしか本当の救いはないと知っていたのです。

神のご意志は、「愛」によって人々を救うということなのです。そして、人々の心に愛を取り戻させようとしているのです。

戦争が起きるのも、奪い合いや貧富の格差が生じるのも、病や障害が発生するのも、自然が破壊されてゆくのも、全ては元をたどると、神から離れて愛を失ったからです。奇跡によって一時的に戦争を終わらせたとしても、憎しみが残っていたなら再び戦争が起こるだろう。どんなに物を与えたとしても、愛がなければ分け与えられることなく、格差が広がるばかりである。我がもの顔で自然を蹂躙していたのでは、自然の輪(生態系)の中にいる人間が健康を損ねるのも仕方のない結果なのでしょう。

根本的な解決には、「愛」を取り戻すしかないのです。
だから、神はひたすら我々の心に働きかけ、愛を送り続けている。神による唯一の救いの手は、「愛すること」だけなのである。我々はその愛に気づかなくてはならない。十字架上で愛を示したイエスと同じである。あれは神の姿でもあった。我々は悔い改めなければならない。生まれ変わらなくてはならないということです。

〇 時が訪れるまで

全ての人が愛を取り戻すには時間がかかる。(長い歴史を経て少しずつ人の心は変わりつつある)
じゃあ、今のこの時はどう過ごせばいいの?

神は「初めであり、終わりである」。愛に始まり、愛に終わる。
行き着く先は「愛の世界」(天国)しかないのですが。そこに至るのはまだまだ遠い先なのです。
人々が悔い改め、神に帰り、愛を取り戻すのには時間がかかります。地獄(償いの期間)を通過しなければならないこともあるだろう。神様のすべての悲しみを拭い去り、真の幸福、万人の幸福の時が訪れるには時間がかかるのです。すぐに万事がうまくいくという風にはならない。だから、甘んじて試練も受け止め、償いの期間を早く通過するべきです。
その過程においては、悲しみを抱えながらも愛する。苦しみを背負いながらも生きる。その方法を身につけるべきなのです。

神はひたすら愛し続けておられます。
我々は、ただ、神が愛であるということを信じ、そこに希望を持つ。愛によってもたらされる未来にのみ「希望」があるのです。だから、愛とともにあることが「救い」につながっていくのです。

アフリカの戦場に赴いた医師は、大きな愛とともにあるということを“良し”とし、そこに平安を見出していました。そして、勇気を振り絞っていたのです。私はそう推察します。純粋な子どもたちの目は、愛によって輝いていたのです。

YouTube 「風に立つライオン」シネマヴァージョン

〇 愛とともにある

「神は愛である」、それを信じ、神と一つになる、愛とともにある。そこに、夢や希望や救いがある。
現実は厳しく、悲しみが多い世界なのだが、「愛」という、その一点に幸せを見出しているのです。

愛にはすべてが詰まっている。幸せの核のようなものです。
だからそれを決して手放さないように。愛をかき抱きながら生きるのです。この愛がすべてをもたらすと信じて歩むのです。

結果を待たずしても、愛にはすでに宝石のような価値があるのです。輝いています。
実際、愛とともにあるときは、悲しみがそれほど悲しみではなく、苦しみも何とか乗り越えられるものなのです。愛が痛みを和らげてくれるのです。

「ずるっこい幸せ」ばかりを望むのではなく、悲しみを抱え、苦しみを背負いながらも、「愛」とともにあることを、今の幸せとするべきなのです。そうであってこそ、来るべき時、神とともに永遠の愛の世界、喜びの世界に入り、ともに至福の時間を噛みしめることができるのです。

幸せは何処にあるの?

重い十字架を背負わねばならない人はたくさんいる。
今、現時点において言えることは、「愛とともにあること」それを幸せとすべきだということです。悲しく、つらい道かもしれないが、いずれその「愛」が、希望・救い・喜び・幸福・平和、など全てをもたらしてくれるだろう。そう信じて、愛とともに歩むのです。

すぐには叶わないけれども、「僕たち、しっかりやろうね」、と言った、賢治の気持ちが少しわかる気がします。

愛とともに歩む人には安らぎがあるのです。心の中に平和感があるのです。
“Peace be with you.”「安かれ」(平安があなたとともにあるように)とイエスは言いました。神(愛)とともにあれば、「心の平安」は得られるであろう。

愛を抱くことは、全てを抱くことなのです。
愛によって、全てが創造されたのですから・・・

愛を抱く人は一人ではない。常に神とともにいる人なのです。

2025.11.15