神の愛に帰りつくこと

私たちは、自分自身におこる体(健康)の問題、心の問題をどのようにとらえているでしょう。
子どもたちの救いをどう考え。そして、世界で繰り広げられる惨事をどのように見ているでしょう。
その解決方法は、本当にあるのだろうか?

人の体は「土」から生まれ、生態系の循環によって維持されている。
ゆえに、人間による生態系の破壊は、人の健康をも損なう結果(脳の障害も含む)をもたらしている。
自然は大切であり、人の体を生かすものである。なのに、なぜ破壊するのか?
なぜ、人はそのような勝手なふるまいができるのか。
神を見失い、自己中心な思いから、自分を満たすための欲望に駆られておこなっている。
愛を失った人の行きつくところは、「自分」なのである。

そして魂は、どんなに自分を満たしたところで、満たされない。救われない。
人を信じることができないし、自分さえ信じることが難しい。神を見失っているからである。
人は本来の姿を失っているのだ。自分に固執しながら、自分を失っているのである。
人は、愛を宿してこそ本来の個性を発揮するようにできている。生きた者となる。
あらゆる宗教が訴えるように、自分を捨て「空」となり、そこに本来宿すべき神の愛、仏の慈悲を取り戻さなくてはならない。そうでなければ、自分という個性さえ生かすことができない。自分らしく生きられないのである。

全ては、神から離れたこと、神の愛を失ったことによって生じた問題である。
神から離れるということは、愛を失うということである。
神様の視点に立って世界を見ることもできなくなる。結果として自己中心になってしまう。
自分を肯定(正当化)して、自分にしがみついて生きるしかなくなってくる。

「自分を信じなさい」という人がいるが、本当に自分を信じ切れる人が、はたしているのだろうか?
いつのまにか存在している、あやふやな自分、何もなかった自分を・・・
自己中心のままで、自分のこと(あるいは自分の延長線上のこと)ばかり考えているのに、どうして人や世界が救われるのだろ。自分を中心とした視点からしか見ていない。神から離れた人の力、人の欲望ではどうにもならない。限界がある。(対立が生じ、奪い合いになってしまう)
だから、自分に都合よく解釈して自己満足するしかない。(自分の領域外はなるべく見ないようにして)
人は自分の欲望と神の愛との間において葛藤しながら生きている。
葛藤と疑問の中で生きるのが日常であり。しかたのないことだとあきらめている。

自分というのは、あやふやな、訳の分からない存在である。
若者は、「自分探しの旅」に出たりする。でも自分にとどまっている限り見つかるものではない。自分が自分をこの世に生みだしたのではないからである。(すべては後付けである)本当の存在の理由など自分自身にはない。

愛から生まれてきたものが、その愛を見失った状態では、自分など見つかるわけがないのである。

人は神の愛を宿し、仏の慈悲を心に宿してこそ人間らしくなるのである。
本当の自分は、神の愛に帰りついて初めて気づくものなのである。愛があって、自分があるのだと。

愛によって生まれてきて、愛を宿して、愛に生きる。それが本当の自分なんだと発見するだろう。
愛は神から来るものなのである。

○ プリズム

神の愛を光だとすると、人間はプリズムのような役割で、その人の個性によって七色に光を放つ。
神の愛をどう表すかは、その人の個性によって変わるということである。ただし、光を失って、光のない場所だと、プリズムはただのガラスの物体で、光を放つこともなく、意味のない存在になってしまう。自分を失った状態になってしまう。どう生きたらいいのかわからなくなった若者のようである。

もう一度、光に照らされてこそ、自分の個性を輝かすことができ、生きた者となるのである。
信仰によって光り輝くとはそういうことだと思う。

人間においては、プリズムは必ずしも三角型とは限らない。いろんな形、いろんなカラーがある。それによって放つ色彩もいろいろだ。それが個性というものだ。でも、光源がなければ光を放つことはできないという点においては同じである。すでに愛されてはいるんだけれども、その愛に気づくということである。

私は、宗教・宗派は問わない。自分に合ったものを見つければいい。大切なのは、光を見つけ出して、自分も光を放てるようになるということである。簡単ではないけれど、自分の内に光を見いだすということは大切なことなのである。ここでいう光とは愛のことである。

○ 神の愛に立ち帰ること

もし、根本的に解決したいと思うなら。救われたい(矛盾から抜け出したい)と思うなら、
「神の愛に帰りつくこと」、それを第一にすべきである。(それしかない)
神の愛に立ち帰り、そこから世界を見つめ、世界を愛すること、それに尽きる。
神の愛に立つことによって、人も自然も生かされる。自然はその本然の循環を取り戻すだろうし、人は神の形となり(神人一体)、神の愛を実現させてゆく存在になるだろう。人は神の愛の顕現となる。
夢のような話だが、人と地球はそのようにして救われてゆくだろう。

あらゆる宗教的な修行はそのためにあると言っていい。
そうすることによってのみ、浄土や神の国(天国)は実現されるのである。
細かなことはわからない。だが、究極的にはそういうことである。
だから、自分を捨て(無となり)、神の愛、仏の慈悲と一つになることが大切なのである。
これが万人共通の救いの道である。

神様の視点に立って世界を見たなら、その見え方は変わってくる。
神(愛)の御心に従って行うならば、私利私欲は消えてゆく。しかしそれは自己喪失ではなく、最大限自分が生かされることなのである。本来の自分(愛に生きる自分)を見いだし、生きた者となれるのである。

アメリカ大統領がその就任式に、聖書の上に手を置いて誓いを立てる、あの行為には大きな意味があるのだ。聖書の教えは「愛」である。自分の思い(自分の欲望)ではなく、神の愛に立ち帰って政治をおこないますという誓いなのだ。

○ 子供たちの救いの道

神の愛に立ち帰ることが大事であり、それが個人の救いにもつながるということは、なんとなくわかってきた。しかし、それは誰にでもできることなのだろうか?

例えば、障害のある子はどうなのだろう。
知的に重度の障害のある子供は字も読めなければ、言葉の意味も分からない、神様や仏さまの名前も知れない。
理解力がないのである。そんな子供たちに救いの道はあるのだろうか・・・
(このことを伝えるのが、今回の原稿の主題であると言っていい)

よくよく考えてみると、元々神様には名前など無かったのである。神はご自身のことを「有って有るもの」と言っていた。もとは、ただ「愛」であるということなのだ。言葉もあとから生じたものである。言葉は愛から発する思いが言葉になったのである。愛によって全てを生みだし、愛によって天国を築こうとされたのである。

木々や草花、小鳥や魚たち、彼らは神の名前を知らない。
しかし彼らは、本能的に神の愛を知っており、精一杯輝きを放とうとしている。
自然界は美しい、愛を宿しているからだ。そして、一つ一つの自然も愛の中で生かされていて幸せなのだ。石ころだって、神の愛を知っていて、愛によって生かされている。

ここでちょっと寄り道だが、フェデリコ・フェリーニの映画『道』に出てくるワンシーンを思い出した。
「私は何の役にも立たない女よ」「生きていることが嫌になった」と泣くジェルソミーナに、綱渡り芸人のイル・マットが声を掛けた。「こんな小石でも、何かの役に立っている」。この世の中にあるものは全て、何かの役に立っているんだよと。深い映画である。
主役のザンパノは粗野で、人を買い取り、人を殺し、人を捨てた悪人である。そのザンパノの心がどう変わっていくかが焦点である。悪人であっても救われるという「歎異抄」を思わせるようなストーリーだと感じるのは私だけだろうか。

○ 言葉を知らず、意味が分からなくても・・・

神様がわかる人はそれを信ずればいい。聖書を読み、イエスの言葉を聞いて、愛の実践をすればいいのである。仏教徒は経典を読み、念仏を唱え、阿弥陀様や観音さまの慈悲と一つになればいい。教会に行って礼拝に参加しお説教を聞いたり、お寺に行って参拝し法話を聞いたりするのも良い。

しかし、障害があるがゆえに、それらの意味や行為がまったくわからない人もいる。
その人たちには救いの道は閉ざされているのだろうか?
俊邦は、神様という言葉は知らないし、信仰の意味も分からない。けれど、その感覚によって「愛」はわかる。だから、愛されればニコニコしている。

言葉で理解しなくても、宗教の行事には参加できなくても、「愛」がわかれば、それが本当の意味で神を知っているということになるのかもしれない。神は愛なのだから。
意外と健常な人よりも神に近いかもしれない。「幼子こそが天国にふさわしい」とイエスは言う。
神と共に、愛の中で生きているのかもしれない。

マタイによる福音書 19章14節
するとイエスは言われた、「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」。

愛を感じとることは大切なこと。言葉や信仰はそのための道筋にすぎない。

○ 聖書とキリスト、阿弥陀仏の伝えようとしていることは何か?

俊邦は、聖書を読まない。念仏も唱えない。それで浄土や天国に行けるのか?
救いの蚊帳の外になるのではないか・・

イエスは言った、「この聖書は私について証しするものである」と。
聖書はイエスを証しする、イエスは神(愛)を証しする。すなわち「愛」を知るためのものである。
愛に到達すればそれでいいのである。それで目的は達成している。

以下は、聖書からの引用です。

ヨハネによる福音書 5章39節
「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。」

聖書はイエスを知るために存在している。

ヨハネによる福音書 14章9節
イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。」

そのイエスは神を顕す為に来られている。
そしてその神は「愛なり」と言っているのである。イエスは身をもってそのことを証明された。
結局、神から離れていった人間が、神の愛に帰着すること、それこそが全ての救いの目的とするところなのである。

では、仏教に目を向けてみよう。

一遍上人が、長い布教生活の果て、死が近づいた時、一切の書籍を焼き払った上で、「一代聖教みな尽きて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」と言った。その言葉から、慈悲の心を最後のよりどころとしていることがわかる。心の奥底の「慈悲」(阿弥陀仏)にすがったのである。

一遍と言えば遊行のお坊さんなので、市井における辛酸を知り尽くしている。その一遍が、「慈悲」の一言、南無阿弥陀仏にたどり着く。人が最後に向かうところはそういうことなのだ。
障害者の親も、心の奥から絞り出すように、愛する心を求めたはずである。

阿弥陀仏の本質は「慈悲」である。
念仏を称えるのは、慈悲と一つになる為のものなのである。言った、言わなかった、信じた、信じていなかった、そういうことではなく、愛と慈悲にたどり着くことができたなら、聖書や念仏の目的は達成されているのである。

だから、俊邦が幼子のように、愛を感じ、慈悲を感じて、ニコニコ笑顔でいたとするならば、たとえ念仏を唱えなくても、聖書の文字が読めなくても、神様・仏さまの名前を知らなくても、本当の意味で神様を知っているということになる。
神様・仏さまと共にいて、その愛と慈悲の中で生きている。天国や浄土に暮しているのと同じなのである。死んでからも、きっとその方向に導かれてゆくであろう。

彼らは、健常な子供以上に、親からたくさんの愛を受けてきている。
彼らは、愛を知り、慈悲を知っているのだから。彼らは、愛の中で生きているのだ。
愛によって生きるように、運命づけられた人たちなのだ。

○ 愛はいかにして成立するのか

愛というのは、単独では成立しない。
愛する人と、愛される人がいて、その二人の関係において成立するものである。
私だけでもダメだし、俊邦だけでもダメだ。二人がセットになってはじめて成立する。だから天国は、二人で入る国なのである。(字もそのようになっている)

二人の間に愛があり、その愛の中に共に生きているのならば、どちらも同じ天国に一緒に入って行くということなのである。だから障害者であっても、障害者の親であっても、天国に入る資格は愛によって得られるのである。その障害ゆえに、より深い愛をもって天国に行くことができるのである。困難な道であればあるほど、より大きな深い愛に到達できる。

支援者と利用者の関係においても同じである。愛があれば、愛の中に生きるようになる。

(そもそも神ご自身においても、愛する対象として人間を造らざるを得なかった。愛が愛であるために・・これが創造の理由だと思う)

○ 愛しがたきを愛する

愛しがたきものを愛することほど、崇高な道はない。
弱者や障害者、被災者、貧しい人、死にゆく老人、虐げられた者、異なる人種、敵国の人・・・
イエスは敵さえも愛せよと言った。

マタイによる福音書5章44〜48節
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。天にいますあなたがたの父の子となるためである。」
「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、何の報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけに挨拶をしたからとて、何のすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

愛において完全な者、愛することができる者となりなさいと、励ましておられるのです。

愛することができたならば、「勝利者」なのです。
神は、あなたならばきっと愛することができると信じたからこそ、与えた子なのです。
困難を乗り越えて愛したならば、その分だけ愛の版図(救いの世界)は広がってゆきます。神様には救いたい人がたくさんいるのです。だからあなたにこの使命を与えたのです。

すぐには愛せなくても、時間をかけて、祈りながらじっくりと愛してゆけばいい。
心の奥から、きっと神様が助けて下さる。神様は枯れることのない愛の泉なのです。(神が内生するとは、そういうことです。遠藤周作は「同伴者」と言った。)
愛は神から来るものである。自分の力ではなく、神と一つとなることを心がければいい。

許しがたきを許しつづけ、愛しがたきを愛しつづけて来たのは、神ご自身であるからです。
それが、本当の愛なのです。

生きているといろんなことがありますが、私もほどよくボケてきました。
(細かいことはどうでもいい、あきらめがつきやすい、許しやすい)

年をとると子供が可愛くてたまらない。私もようやく日々の生活が「日日是好日」と思えるようになってきたところです。 つらくても愛に生きることが楽しい。

愛の勝利者となるということは、人を救い、自分を救い、神を救うことなのです。

2025.2.17

ただ、あまり大袈裟に身構えて取り組む必要はない。
愛の勝利者は、喧嘩の勝利者とはちょっとちがう。憎しみや敵対心や虚栄心はないのである。
「勝利者」などというと、勝つか負けるかの勝負事のような雰囲気になってしまい、穏やかでない。力んでいると疲れてしまい、長続きしない。

「日日是好日」、穏やかな気持ちで、日々感謝して過ごすことができればそれでいい。あたりまえの、普通の生活をしていればいいのである。勝利者の心は、驕ることなく、穏やかで平安なものである。

愛の勝利者は、静かで、穏やかな勝利者なのである。

○ 戦争について

「許しがたきを許し、愛しがたきを愛する。」愛の勝利者となること。
これが戦争を終わらせる唯一の方法だと思うのです。
もちろん、力のバランスや交渉、経済政策や文化の交流など・・・様々な手段があり、どれも大事なことなのですが。恨みの根っ子が残ります。(心は救われていない)
憎しみは憎しみを生み、攻撃の応酬、報復合戦になってしまいます。
もうこれ以上血を見るのは嫌だと、限界に達するまでやり続けるというのは残酷すぎます。
自然の破壊もそうです、地球の限界が来るまでやり続けています。

だから、宗教は対立している場合ではなく、人の心の中で本当の役割を果たさなくてはいけないと思うのです。人の心(欲望)が戦争や破壊を生んでいるのですから。人の心に神と仏、愛と慈悲を取り戻すしかないのです。
ただ、「愛」になるしかないのです。
大悲の神(仏)のように、涙を受け止めて、悲しみに寄り添いながら、「ほんとうの幸せ」のために(愛で一つとなる為に)愛するのです。怨讐を越えたところに平和はあるのですから。

2025.2.21