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人生の目的

サルトルの実存主義
『実存主義』を主張したフランスの哲学者ジャン・ポール・サルトルの有名な言葉がある。
「実存は、本質に先立つ」というものだ。それを発見したと言うのである。
もし、神がこの世界を創造したとするなら、目的があって作ったはずである。「実存に先立って、本質がある」はずだ。目的や理由があって生み出されているはずである。にもかかわらず、人間は実存のほうが先に立っている。「実存は、本質に先立つ」つまり、目的を持たないままに、存在が先になっている。とサルトルは言う。要するに、目的など与えられていない。人は造られたものではない。神などいないということになる。サルトルは無神論者である。
私たちは何のために生まれてきたのかという「本質」を持たないまま存在している。
だから目的は、存在しているもの自身が、後から自由に考えればいいんだ、という思考の流れになっている。自分の人生、自分の好きに生きればいいという考え、人生観になる。はたしてそれでいいのだろうか?
あるもの(実存)がすべてだから、死んだら(なくなってしまえば)おしまいという考え方に近い。それが「実存主義」だ。本質は存在しない、神は存在しないと言うのである。
でも本当に、人間は目的を持たず、理由もなく(偶然に)存在しているのか?
本質など捨てて、目的は人間自身が後づけで考えればいいことなのか?
生きたいように生きればいい。「実存が先」というのは、存在している人間を優先するということなのである。
もし、世界はわたしのものだと思い込む人が出たなら、それさえまかり通ってしまう世の中になる。
それとも、目的があるにもかかわらず、何らかの理由で見失っているのか?
あったんだけど、関係が切れてしまって、わからなくなっているんだということ。
どうやら、後者が真実のようだ。(信仰をもつ者の目から見ると)
罪を犯すこと(原罪)によって神との関係が切れた。神から遠ざかり、愛を失った。
そして、同時に人生の目的(存在の理由)も見失った。ただ、在るとゆうだけ。ぽつんと人間だけが取り残されたのだ。結果としての存在だけが後に残る形となった。「なぜ私がいるのか」「何のために生きているのか」それがわからない状態にある。愛から切り離されたからわからないのである。
人生の目的を見失った人たちは、「自分探しの旅」に出る。
その旅には二つの道がある。一つは自分の好きなことを見つける。やりたいことを探すということ。なりたい自分になる。もう一つは、自分がなぜ存在しているのか、その本質を見つめようとする旅。本当の理由を知り、本来あるべき自分をつきとめようとする道だ。

神から離れた世界
実存主義に走るのは、罪を犯した後ろめたさからの逃避(自己正当化)なのかもしれない。本質に目を向けることができない。だから、神の願い、神が目的とするところからズレてしまうこともありうる。
それでも、もし人間に神様以上の愛があり、みんなを幸せにできるのであれば、それもいいかもしれない。
だが、人間にそんな愛があるのか? 世界に平和は訪れたのか?
そんなわけがない。偽りの愛の世界が広がっただけである。多くの悲しみや不幸が生じている。
21世紀に入り、今時の若者たちの風潮だと、「自分という存在を大切に」、「自分を信じて」、「好きこそが力の源!」といったように、出発点が自分であり、実存主義に近い考え方が普及しつつある。(実存主義的な傾向がみられる)確かに、自分は大切で「好き」なことを追い求めていたら力が湧いてくる。それは恵まれた人の人生である。
それでうまくいっている時は、自由でいいような気もする。しかし、人生には想定しないことが起こるものである。望まない人と出会ったり、障害のある子が生まれたりする。「好き」で産んだわけではない。「どうして、私なの・・」みなそう言う。受け止められないようなことも起こる。好きだけでは乗り越えられないことがある。「嫌」なことまで起こりえるのである。
「実存」していることだからしょうがない。そこから考えるしかない。
でも、後から考えてもつじつまが合わない。自分には限界がある。人生に行き詰まる、世界も限界に達している。
上辺だけの思いでは越えられないことがある。根本的な、存在をかけた愛を必要とする時が来る。
歴史を振り返ってみても、戦争や紛争、格差や貧困、望まないことがたくさん生じてしまっている。
どこかで道を間違えたようなのだが、なぜだかわからない。
解決に導くのは、人類が共通に心に抱いている「愛」である。

神に帰ること
本質を見つめなおす旅。
自分に限界を感じた一部の人は、信仰に救いを求める。神に帰ろうとする。本当の愛を必要とする。
神のもとに立ち返って、存在の本質「本当の自分」を発見する。自分が何であり、どう生きるべきなのか、「人生の目的」を本質から考えるのである。そうすることによって「実存」が決定づけられる。(本来の順序に戻る。正常化する)
では、本来の目的は何か?
それは、人をお創りになった神に尋ねなければならない。(創造の目的が先にあるからである)
神は人の中に宿り、人を通して愛そうとされた。愛をもってすべての人を幸せにし、ご自身もともに喜ぼうとされたのである。(これが神の目的)だから人間は、その神と一つになって愛し、自分も愛となり、神とともに幸せになるということである。それが目的だ。(人間の目的) 愛に始まり、愛に終わる。愛の世界に至る。
愛が望むことは、「みんなの幸せ」である。それは「愛し合う世界」である。それが目的となる。それを取り戻すために、神との関係を修復しなくてはいけない。だから、宗教(Re-ligion)が必要になった。再び、つなぎ合わせるのだ。
本来の目的を取り戻し、愛となり、生きた存在となるためである。

真理はシンプルなもの
人生の目的は、極めてシンプルである。真理もまたシンプルである。
「神は愛である」それが答えである。愛がすべてなのである。そこから考えればよい。
愛を知ることが真理を知ることなのである。
神はアルパ・オメガである、初めであり終わりである。愛に始まり、愛(愛の世界・喜びの世界)に終わる。愛は永遠である。
人間は、「神の形」として造られた。神は愛を形にし、体感したかったのである。実体をもって愛し合い、一つになりたかったのである。愛によってもたらされる喜びを人とともに味わいたかったのである。その感動に浸りたかったのである。人間にはそのような神の願いが込められている。
神がどんなにその心の中に愛を抱き、愛したいと思っていても、お一人のままでは愛することができないのである。思い描くことはできても、実際に愛することは出来ない。孤独で淋しい存在だったのである。だから、愛する対象、ともに喜びを分かち合う存在、愛のパートナーが必要だった。それはロボットのように言いなりになるパートナーではなく、独立した、自由意思のある存在、ご自身と同じ感情を有し、対等な立場で愛し合える相手でなくてはならない。それが条件であった。
神はご自身の形に似せて人を造られた。アダムとエバを造られた。愛し合うために相対世界を造られたのである。そして神は人に宿り、実体をもって愛し合い、一つとなる喜びと感動を人とともに得ようとされたのである。
愛は相手の幸せを願う。だから人々は愛し合い、喜びの世界(天国)を築いてゆくであろう。その世界の中心は神であり、愛なのである。
万能の神であってもお一人では、愛し合い一つとなる喜びは得ることができない。
神にも体が必要であり、愛のパートナーが必要なのである。だから実体を持つ相対世界を造られた。すべては、愛を実感するためである。愛は対象を求める。だからアダムとエバがいて、愛し合い一つとなることによって喜びが生じる。それは神の喜びでもある。
本来、男女の交わりは、最も神聖なものであり、清く美しいものであった。
それが性欲に溺れることにより、汚らわしいもの(いやらしさを感じるもの)になってしまった。人類が歴史を通じて犯してきた大きな罪である。愛を弄んだがゆえに、神との関係が切れたのである。性欲は生存のための本能であるとされるが、それ以上に愛を高めるためにあるのだと思う。(多くの宗教は不倫を罪とする。許されない関係において、愛から離れて、性欲を貪ることは最大の罪とされている。)
人は神の形であり、神を宿すべき存在であった。神の愛を宿し、神の愛を成就する役割を持っていた。神と一つになり、愛の目的を果たす。愛は人を幸福にする。喜びをもたらす。平和をもたらす。そのような愛の世界で神とともに喜ぶことが目的である。これが人間の目的、人生の目的である。
神を宿して、愛に始まり愛に終わるのである。神とともに喜びの世界に住むのである。それを「天国」と言う。
人は神を宿し、神と一つになり、神の愛をもって愛し合う。その喜びを神に返す。
相対の世界(二の世界)には、喜びや楽しみもあるけれど、その反面悲しみや苦しみもある。美と醜があり、智と愚がある。見方によれば「地獄のような世界」かもしれない。しかし、愛があれば、愛し合えば一つになりえる世界なのである。そこに意味がある。真の喜びと感動の世界があるのである。
その距離が離れていたものほど、一つになったときの感動は大きい。
慈愛は悲しみに寄り添い、痛みを和らげ、ともに癒しの世界へと入れるのである。だから、この世は大変ではあるけれど、捨てたものではない。神(仏)とともにあれば、何とか乗り越えることができる。

愛への献身
献身とは、神の愛に対して献身するのである。「神の器」となるということである。
神の愛を宿し、神の愛をもって愛する、そして自分も愛となる為である。
キリスト教会で言う「献身」というのは、本当は教会に自分を捧げて、主宰者や教会の言いなりになったり、組織の単なる活動要員になることではない。
信仰における献身は、神への献身であり、すなわち「愛」への献身なのである。愛を宿す器となるということを意味する。それはあくまで、神と私の一対一の関係(信仰)において捧げるものであり、誰かに指示されて行うことではない。
神は愛である。だから、愛を宿して生きる。愛を宿す器となる。それが「献身」の意味するところである。神はわたしに宿り、私を通して愛されるのである。だから私の言葉、私の愛は、その深いところにおいて神から来たものなのである。
ただ、なかなか完全な一致をみることは難しい。だから謙虚に信仰を深め、霊性を研ぎ澄まし、愛を極めてゆく必要があるのである。少しばかり神を感じたからと言って、へたに自分を神格化しない方がいい。自分が神であるかのように振舞う、それは大きな犯罪である。愛されているのは神なのである。愛は神から来ている。それを横取りしてはいけない。証しすべきなのは神である。
真の愛においてのみ神は宿られているのである。自分の内に神を感じることができたなら、それが幸せである。
愛に始まり愛に終わる。神を宿し、神の愛と一つとなり、自分も愛になっていくことが人生の目的である。そして、みんなに幸せをもたらし、神を喜ばせることが最終目的なのである。愛となって、人々と神を喜ばせるのが目的なのである。
神とともに、愛に始まり愛(愛の世界・喜びの世界)に帰着する。愛は永遠に続く。
人生の目的はシンプル。愛の目的を果たすこと。人を幸せにし、神を喜ばす。
やるべきことは明白である。神を宿し、神の愛をもって愛し合えばいいのである。その愛がどういう愛なのか、真の愛を人生をかけて追及してゆけばいい。
ここで生じやすい誤解がある。神を宿すということは、自分を失い脱個性になるのではないかと心配される方がいる。くれぐれも言っておくが、神を宿すということは、個性(自分らしさ)を失うということではない。個性をもって神の愛を顕すということである。自分を生かすことになる。私だけにできる愛を顕すのである。何かに指示される、言いなりになるというのではなく、私の中に湧き上がる思い(愛)によって、自発的に動き始めるという感じである。
神の愛は私というプリズム(個性)を通して七色に輝くのである。

一番の真理
「神は愛である。愛に始まり、愛に終わる。神の愛は永遠である。」これが、一番の真理である。
愛が愛であるためには、対象を求め、愛し続けなくてはならない。
じっとしていてはダメなのである。立ち止まっていたら愛は死んでしまう。(愛が愛でなくなる)
困難であることよりも、愛さないことの方が深刻な問題なのである。
誰かを幸せにしなければ、自分も幸せになれない。それが愛というものなのである。(それが愛の性質である)
人もまた、神の形であるがゆえに、神と同じような性質を持つ。(神の子であるということ)
「神を宿しながら、愛に生き、愛に終わる(愛に帰着する)。愛は永遠に続く。」これが人の生き方である。「人生」である。誰かと出会い、誰かを愛し、誰かを幸せにすることができたなら、「幸い」である。神は人とともに喜ばれるだろう。これで神のみ旨と、人生の目的が一つ達成したことになる。
神を知れば道は定まる。愛を目の前にしながら、それを無視し、自分ばかりを見つめて、自分の思いに固執し、好き勝手に生きるなどできないことなのである。
愛は悲しみに寄り添うものである。人の悲しみを自分のことのように悲しむ。人の為に悲しむ、その悲しみは愛なのである。(だから仏様は大悲と言われる)
愛には悲しみが伴う。心配もつきものである。我々だってそうだ。
でも、心配する相手がいるというだけで、幸せなことなのである。(考えようによると)
その時、あなたは愛になっているのだから。
その瞬間、あなたは生きている、生かされているということなのである。

心の奥底にあるもの
人生の目的を神に合わせるということは、なにも自分の夢や思い、やりたいことを捨てろというのではない。自分の考えや個性をなくせというわけでもない。その奥に神が働いているんだということである。根底には神の愛がある。その愛に生きよということなのだ。(ボトムに愛があるから、自分たちが生かされるのである)
自分では越えられないようなときでも、神の愛が支えになる。
自分自身の個性や思い、夢を生かすのは、私の中心にある愛なのだということ。
何のために生きるのかと問う時、愛の為に生きるのだということ。愛の為に、人々に幸せをもたらすために、自分の個性を用いる。自分を生かす。その時、自分は最も輝けるのである。
人間は神によって命を与えられているので、生まれてきたことには必ず意味がある。
神によって付与されている個性がある。役割がある、使命がある。神の願いが込められている。大きな指針を失ったとき、根底にある神の愛に立ち返って、もう一度自分を確認すればいい。何か自分にできること、自分だからこそできることがあるはずである。自分にしかできないことがあるはずである。
人間の奥深いところでは神が働いていて、愛に生きるようにできている。
だから、自身に与えられた個性によって神の愛を顕してゆけばいいのである。私の持っている個性とは、愛を自分らしく顕すために賦与されているものなのである。
神の愛は間違いなく、私の心の支えになるはずである。
そして神は、私に愛を与えるとともに、多くの智慧も与えて下さる。わからないとき、人生において迷ったとき、祈りながら尋ねてみれば、心の奥底から答えが湧いてくる(返ってくる)ものである。そして、自分を一番必要とする場所へと導いて下さるであろう。
神は霊である。その声は耳に聞こえるような声ではない、魂に響くような思いが伝わってくる。感情が、愛が湧いてくる。その霊は意味を含み、私の中で言葉へと変換されるのである。(神からの言葉の霊は、言葉になる前の真の言葉なのである)
「自分自身に問いかけなさい」「答えは自分の中にある」というのは、自分の内に存在する神が答えてくれることを、経験上知っているからである。神の霊が答えへと導いて下さる。最後は、神と私で決めるのである。
自分の中、奥深くにある「愛」は、自分にとって最も大切なものである。それによって、私は生かされているのである。神とともに愛した人生は、人にはわからなくても、神とともに喜び合うことのできる満足のいく人生になるはずである。だから、最後に行くときも神とともに行く。
2025.12.12

【補足】
サルトルの実存主義はこうである。(私の見解)
「実存は本質に先立つ」我々人間は目的があって存在しているのではない。気が付いたら存在していたのだ。生まれ持った人生の目的はない。存在の方が先行している。目的はその後、各々が自分で見つければいい。そういうスタンスである。それは、人間は目的をもって作られた存在ではない。神などいないという主張である。我々は偶然に存在している(理由はわからない、本質などない)。確かなことは今存在しているということ。神を否定し、神を切り離した状態から考えを進めている。前後が逆になり、原因を見ずに、存在(結果)から独自に判断して先に進もうとしている。神を切り捨てている。そこには神のような「愛」という動機はない。
後づけで目的を見つけたとしても、それは神の願いとはズレたものなので、どこかで歪みが生じ、神の願わない世界が現れるのである。それで、人は違和感をおぼえ、どこかで間違えていたのではと、「人生の目的」を振り返るのである。
デカルトの「我思う、故に我あり」というのも、前後が逆になっている典型的な例である。
人間が罪を犯した(自分が悪い)にも拘わらず、招いた結果(現実の存在・思っている自分)をもって、原因を判断した。神はいない、愛などないと・・・あるのは私(存在)だけだと。
こうなってしまうと、自分を正当化し、自分の都合に合わせて物事を考えてしまうようになる。
神と切れてしまった人間が、正しく自己を認識し、間違いのない方向に歩んでゆくということは難しいことなのである。(至難の業)だから、どこかで人間は振り返り、神との関係を修復する。「宗教」(Re-ligion)再び、つなぎ合わせることが必要となるのである。
宗教は(まともな宗教であれば)どこの宗教を通じてでもいい、無宗教であってもいい。特定の宗教は持たなかったとしても、信仰心は持ってほしい。せめて神様か、あるいは仏さまを信じてほしい。そして、時々手を合わせてほしい。神様が喜ばれるのは「信じることと、真心である」。神にささげる思いが真実であれば通じる。神の愛を感じるだろう。私たちの心がわからないような神様ではない。神様は必ず「真」なるものを見極められる。

サルトルの実存主義と思想の流れ
実存主義(じつぞんしゅぎ、英: existentialism、仏: existentialisme)とは、人間の実存を哲学の中心におく思想的立場、或いは本質存在(essentia)に対する現実存在(existentia)の優位を説く思想的立場である。存在主義とも。キルケゴール、ヤスパースらのキリスト教実存主義、サルトル、メルロ=ポンティらの無神論実存主義などがある。小説家ドストエフスキーもキリスト教実存主義に含まれる。
サルトルの思想は実存主義によるもので、今まさに生きている自分自身の存在である実存を中心とするものである。特にサルトルの実存主義は無神論的実存主義と呼ばれ、自身の講演「実存主義はヒューマニズムであるか」(のちに出版される『実存主義とは何か』のもととなった講演)において、「実存は本質に先立つ」と主張し、『存在と無』では「人間は自由という刑に処せられている」と論じた。
以上、ウィキペディア(Wikipedia)より

思想の流れ(歴史的な変遷)から見ると、サルトル(1905~1980)の実存主義にはいろんなつながりがあり、多方面に影響を及ぼしている。
背景には、フォイエルバッハ(1804~1872)の唯物論がある。彼はヘーゲル左派であり、唯物論的な立場から、特に当時のキリスト教に対して激しい批判を行った。そして、マルクスとエンゲルスに多大な影響を与えた。カール・マルクス(1818~1883)は科学的社会主義(=マルクス主義)を主張。弁証法的唯物論・唯物史観を用いて革命を正当化した。共産主義革命を起こした。マルクスは宗教を嫌い、「宗教は大衆のアヘンである」と言った。
サルトル自身も徐々にマルクス主義に傾倒し、一旦は諸外国へ軍事侵攻を行う前のソ連を擁護する姿勢を打ち出していた。
宗教批判と虚無主義(ニヒリズム)をもたらしたニーチェ(1844~1900)も、実存主義の代表的思想家とされる。ニーチェは、「神は死んだ」とまで言った。神を否定し、愛を失ったのだから、虚無的になるのは当然の結果である。
今まで最高の価値と人々がみなし、目的としていたものが無価値となる事態のことをニヒリズムと呼んだ。価値が無意味に感じられ、何も信じられない、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度のことをいう。ニーチェは「超人」になりなさいと励ましたが、虚しい言葉だった。
倫理学でいう虚無主義(moral nihilism)は、正邪、善悪、道徳・倫理(規範)といったものは存在しないとする立場になる。神を捨てるというのは、こういうことになるのだ。
妹のエリーザベトがニーチェのメモをナチスに売り渡した事でナチスのイデオロギーに利用された。
それは優生学に基づいた政策を人間に当てはめることを肯定する内容だった。
「子供を産むのが犯罪となるかもしれない場合がある。最強度の慢性疾患や神経衰弱症の場合である。どうしたらいいのか?」
「すべての生の廃棄物やごみ屑に対して憐れみを持たぬこと、上昇する生に対するたんなる妨害物であり、毒物であり、陰謀であり、潜伏的な敵対者であるものの打倒を求める」
『ニーチェ全集 第12巻 (第II期) 遺された断想』より
ナチスはユダヤ人虐殺以前に、障害者を強制「断種」して、
その後、精神病院にガス室をつくって障害者を多数「安楽死」させていた。
どのような原因、どのような思想的流れから、このような残酷な行為が行われるようになったのか、私たちはそれを肝に銘じておかなくてはならない。二度と惨事を繰り返さないために・・・(ガス室に入れられることはなくても、障害者への虐待は今も多く続いているのだから)

キリスト教を批判した青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)の足跡は、この後にマルクス主義の哲学と、実存主義の哲学とに受け継がれていくこととなる。どちらも共通していることは、宗教嫌いであり、神を否定する無神論者であるということ。そして結果として、多くの死者・犠牲者を生んだ。若者たちは迷い、退廃していった。
キリスト教が腐敗し、宗教が退廃していったとするならば、それに反発して神を捨てるのではなく、悪いのは間違った信仰をもった人間側なのだから、真の信仰を立てて、宗教の復興運動をおこすべきであった。
「優生学」は19世紀後半にフランシス・ゴルトン(1822~1911)が首唱し、悪質の遺伝形質を淘汰し、優良な遺伝形質を保存することを目的とする。進化論と遺伝学を人間に当てはめ、動物の品種改良の原則は人間に応用できると主張した。人類の為と正当化しようとしても、愛をもって接するという発想はなかった。ゴルトンは、従兄弟のチャールズ・ダーウィンが1859年に著した『種の起源』から影響を受けた。ここにも不思議なつながりを感じる。
ダーウィンは「進化論」の提唱者である。ダーウィンの説の重要な部分は、自然淘汰(自然選択)説と呼ばれるものである。全ての生物種が共通の祖先から長い時間をかけて、自然選択というプロセスを通して進化したと主張した。彼は聖書が述べる歴史には批判的だった。「創造論」と対立し、キリスト教的価値観に大きな打撃を与えた。
ダーウィンには大切にしていた娘アニーがいた。
1851年、もっとも愛した長女アン・エリザベス(アニー)が献身的な介護の甲斐無く死ぬと、元来信仰心が薄かったダーウィンは「死は神や罪とは関係なく、自然現象の一つである」と断定した。その後、『自伝』では宗教と信仰を痛烈に批判している。アニーの死は失われつつあったキリスト教信仰への終わりを意味した。
「進化論」の発表は神の創造を否定することにつながる。ダーウィンはそれを知っていながら踏み切った。1859年11月24日に『種の起源』は出版された。
心の中にあるものによって、ひかれあい、繋がってゆくのだ。
あなたが何を宿し、何を中心として生きようとするのかで、人生は大きく変わってゆく。歴史も変わってゆく。恨みを抱き、憎しみをもって生きるのか、神を宿し、愛に生きようとするのか、その違いである。(宗教嫌いの人は、何か恨みを持っていることが多い)
「神などいるもんか」と切り捨てて、恨みをもって生きるか、それでも愛を失うことなく、愛になりきることができるか、そういう闘いである。祈りながら考えて、悲しみに暮れる愛の神と、大悲を抱く慈悲の仏を思うべきである。苦しいのは、悲しいのはあなただけではない。寄り添う者のことを考え、愛に生きるべきである。
上記の思想家たちと比べて、イエスはどうであったか。
イエスは常に弱き者たちの味方であった。らい病患者を癒し、遊女を救い、障害のあるものを治した。愛の教えを説き、敵さえも愛せよといった。罪もないのに十字架の刑に処され、それでも神を呪うことも、恨み言をいうこともなかった。「彼らをお許しください」と、最後の最後まで愛を貫き通した。神にすべてをゆだね、神とともにあり、神を慰めようとした。
イエスは、神は愛だと言った。そしてその生涯を通して神の愛を証された。
どちらの道を歩むかは、あなた次第である。
2025.12.15

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