柳宗悦と「美の法門」

柳宗悦は宗教思想家である。しかしながら、ある時期から宗教を離れて芸術へと身を移してゆくように見られた。木喰仏を求めて日本中を旅したこともあった。「民藝」という言葉を生みだし、日本中に埋もれている名もなき庶民が造り出した器や道具、実用品の中に美を見いだし、それを芸術として評価して蒐集された。「美」は救いの道に通じるのではないかと考えた。

柳は素朴な庶民が作ったものを愛した。無垢なる心を通して何かしら目に見えない力が働き、美が生みだされていると気づいたのである。

1920年代、柳は当時朝鮮の人々と親交を深めていた。朝鮮の白磁に魅かれ幾度も朝鮮に足を運んだ。日韓が併合され、三・一独立運動が起こり、朝鮮人への弾圧が激しかった時代のことである。
日本でも監視の目は厳しかった。柳は特高(特別高等警察)に目をつけられていた。不審な点があれば捕まえられ、厳しい尋問にも合っていただろう。にもかかわらず「朝鮮の友に贈る書」と題して親愛の情を込めて書簡を送ったりした。当時のことを知る人は「よく生き残ったものだ」と言う。

大手を振って宗教の道を歩める時代ではなかったのである。言論は監視されていた。柳は宗教思想家から芸術家へと転身し、「民藝」を起こした。
美の中に神を見いだし、美を通して神に至る道、救いの道を探したのである。

○ 民藝について

「民藝」とは、生活の中で、用途の為に、生きる為に、愛するために作られたものである。そこに美があった。
美は愛から生じている。だから、逆に美を通して(遡ることにより)愛を知ることができる。
美が宗教の役割を果たす道となりえる理由である。
美を通して愛に帰ることができるからである。

本当の美しさは愛から来ている(生じている)ものだからである。
美を探求してゆけば、その本源である「愛」にたどり着く。人の生き方は説かなくとも、愛に帰着するという点において宗教と同じなのである。

民藝品を見ると心が和み、懐かしさを感じる。本郷の愛を感じるのである。

美とは単に、知識や能力、技術によって生み出されるものではない。根本的には愛によって生み出されているものなのである。無心になって自己を投じることにより、神が働いてそこに本当の美が顕されるのである。

○ 美の法門

晩年に書かれた(1948年)『美の法門』という作品は柳にとって特別な作品である。
普段は入念に推敲を重ね時間をかけて書くタイプの柳が、珍しく一日で一気に書き上げた。それだけ啓示に充ちた作品なのだ。これを書き上げた後、霧が晴れ、氷が解けるような心境になった。
「釈然として結氷の溶けゆく思いが心に流れた」と言う。

民衆の宗教である念仏を称える浄土教(浄土宗・浄土真宗・時宗)は、その救済の根拠を『大無量寿経』に記されている法蔵菩薩の第十八願、即ち「念仏往生の願」においている。そのことは誰もが知る通りである。

法蔵菩薩が立てた願はそれだけでなかった。他にも合わせて四十八の願がある。そのすべてが阿弥陀如来として正覚を得た際に成就されたとしている。(仏の名に懸けて真実であるという)

『大無量寿経』には、第四願「無有好醜の願」というものがある。柳はここに目を付けた。
仏の国においては美と醜との二がないのである。

至極の性には相対する質がない。一切のものはその仏性においては、美醜の二も絶えた無垢のものなのである。この「本有の性」においては、あらゆる対立するものは消えてしまう。美醜を越えたその仏性に帰れ、この本然の性を離れて真実の美はない。(美の法門より)

「民藝」を提唱した柳は、本有の性(仏性)に基づく美の宗教を立てようとしたのである。

柳宗悦は、阿弥陀如来(法蔵菩薩)の第四願「無有好醜の願」をもとに「美の法門」を立てようとした。彼にとっての美は、救いへの道であり、菩薩行なのである。

「美が教えるところは、宗教の言葉と同じである。一個の器も文字なき聖書である」とまで言った。
宗教の道を究めたいとする柳の思いは生涯変わることはなかったのである。

○     美の深奥は愛である

子供だって、凡人だって、障害者だって芸術品(美)は生みだせる。

神は無垢なる人の心を通じて働く。作為無き、無垢なる心に神(愛)が働く。無心につくられた作品は美しい。愛がそのままに顕われるのである。
愛に呼応して美が生まれる。美もまた愛の形なのである。

人も自然も神の顕われ、愛のあらわれであるから美しい。美とは、つまり神ご自身のことであり、愛であるから美しい。自然から愛を感じとる、心の奥底から愛を感じとる。神霊(インスピレーション)を感じとる。神と一つになる、神に帰着する。「愛」となる。これが宗教だ。

柳が見ていた美とは、美の根底にある愛だったのだ。愛を感じてこそ美が成立するのだ。美しさとは愛なのである。結局、美というものは愛なんだなということ。愛に根差した美でなければ、美しいと感じないものなのです。

美しさとは仏が仏になることなのである。
仏が仏になったということは、凡てのものを美しさで迎えるという契いなのである。
美が愛に至る道ならば、美によって救われるという「美の法門」も成立し得るのではないか。「愛」に帰結するものであれば、宗教の道となりえる。

○     不完全さを厭うより

『美の法門』、私はこの本の中に書かれている、「不完全を厭う美しさよりも、不完全をも容れる美しさの方が深い。」という言葉が好きだ。とても励まされる。美しさが愛に根差していることを端的に表現していると思う。「無有好醜」とはそういう意味があるのです。

このことは同時に、愛においても本当の愛の深さは不完全なものさえも受け入れる懐の深さ、癒しの力にこそあるということを暗示している。愛が救いと平安、美をもたらすのだということを言っているのです。愛においては好醜を問わない。

私は障害者の親です。悲しみから逃れることはできません。
だから、「悲しみごと包み込むように愛する」ことを心掛けています。
そこに自分の中に働く神の愛を少しだけ感じることができるのではないか、それを大切にしよう、そう思えるのです。(神様と一つになれた気がするのです)

恵まれて、喜びの中でばかり過ごしていた人よりも、その愛は深くなれるのではないでしょうか。
神の愛は、すべてのものを受容して喜びに変えることができ、最高の美を生みだすものです。私たちは心の奥底で、そういったことに感動をおぼえ、求めているのではないでしょうか。

2025.5.17