法華経とその向かうべきところ 続編

ここでは、自力と他力、内生する神(仏)について語ろうと思う。

○ 余白

仏教は人間主義だと言われるが、必ずしもそうではない。

人に頼ることなく、「法」をよりどころとして自己を変革してゆく。釈尊は「法」の中に生きていると言う。それで自力で成仏してゆくという道は、できる人にとっては良い事であるが、凡人にはなかなか難しいことである。思想(人の考え)ではたどり着けない境地がある。愛(慈悲)がなければ越えてゆけない。

だからブッダ(新しい仏教の担い手)は次の手を打った。
法華経の21〜26章(6つの章)は後から書き加えられたものである。
そこには仏陀(今までの仏陀)以外の別の如来・菩薩も登場する。教えの内容も異質のものとなる。
「法」以外には頼るなと言っておきながら、観音さまにすがりなさい、一心に観世音菩薩を念じなさい、「観音力」によって救われますよと教える。他力の教えである。

観音信仰は、「法」をよりどころとする自力信仰とは真逆で、他力救済の道である。

神の愛、仏の慈悲の心は、いろいろな形で現れる。(変幻自在であり、いろんな名前、いろんな形をとる)「法」を説くだけでなく、慈悲の象徴である観音さまとして顕われることもある。一心に念じて、観音さまの慈愛と一つになればいいのである。
法を理解して自らを正すよりも、直感的でよりダイレクトに仏の心に近づけるかもしれない。衆生を救うには、易行の道も必要だと思われたのだ。

再びつなぎ合わせて生まれ変わる。これが宗教の道なのである。

ここからは、神と出会うこと、仏に帰命すること、神の愛(仏の慈悲)と一つになること、それが要求される。神の領域であり、仏の心の領域である。哲学の及ばない分野である。
だから、「慈悲」を象徴する阿弥陀仏や、観音さまが信仰の対象として出てくるのである。
自力でたどり着ける道ではない、神(愛と慈悲)あっての自分なのである。

○ 追加された経典

異質のように思われるけれども、どの教えも釈尊の教え(釈尊の流れをくむ教え)である。
必要に応じて姿を変え、名前を変え、方法を変えて教化しているのである。

ここからは他のいろんな経典にも着目しよう
浄土三部経も重要な意味を持っている。煩悩を振り切って、「慈悲」(阿弥陀仏)へ向かおうとする一本道を説こうとしている。万民救済の為である。一心に念仏を称える姿は、原点(仏の慈悲)に返り本当の自分を見いだそうとする姿なのである。「南無阿弥陀仏」、慈悲へと帰ることにより仏となる。この教えは正しい。

結局、神の愛に帰りつくこと、仏の慈愛に帰命すること、そうすることによって失っていた「自分」(愛によって生きる自分)を取り戻すことが大切なのです。愛と慈悲によって生かされている自分こそが「本当の自分」なのです。そうして生きた人間になったならば誰しもが尊い。神の愛の結実である人間は尊いのである。
ゆえに「人間はありのままで貴い」と言えるようになる。

○ 全てのお経は釈尊の教え(釈尊の志を引き継いだ教え)

法華経は「諸法の王」と呼ばれている。
分裂や誤解を修正し、一つに道をまとめようとする。諸法を整理するという役割をはたしているところから「諸法の王」と言われるにふさわしい。

しかし、釈迦の教えはこれだけではない。数多くのお経があり、どれも釈尊の教えを説いたものである。だから、その教えの本質は同じであり、向かうべきところも同じのはずである。必要に応じて語られたのだから、それぞれが役割を果たせばいいのである。目的は、「一切衆生を成仏させる」ということである。私たちが正しく仏の慈悲に帰りつくことができたなら、それでいいのである。

聖書はイエスを証しするためにあるのであり、仏典も釈尊を証しするためにあるのである。
肝心なのはその中に宿る愛であり、慈悲であって、そこに至ることが大切なのである。

仏教は人間信仰だと言われけれど、私はそれだけだとは思はない。
その人間はどこから来ているのかということである。人の中に仏性があり、その仏性は宇宙の根本から生じている。大いなる生命や神と呼んでもいい。仏性は人間の本性であり、仏(神)から譲り受けたものである。だから人間は、心の奥底で神(仏)に通じることができる。
祈りを捧げ、念仏を称えて、一心に神と一つになろうとするのである。全ての知恵や法、愛や慈悲の心もそこから湧いてくる。本来の人間に立ち帰ることができる。

その生まれ変わった自分を信じよということ。それが「人間信仰」の意味だと思うのです。
堕落した人間、煩悩まみれの人間をそのまま信ぜよというのではない。人の本性を信じよということ。
愛と慈悲を宿した自分ならば、そのままで、ありのままでいいということである。
それは、神から与えられた個性なのだから・・・・

○「永遠のブッダ」のとらえ方

「永遠のブッダ」をどうとらえるか。
ここが、神を認めるか、人間主義に陥るかの分岐点だと思うのです。
キリスト教(一神教)と仏教(人間主義)の融和は、ここの理解にかかっている。

人間主義的にとらえると、「法」を永遠であるととらえ、それが仏陀がブッダ(法と一つになった者)である、仏陀が永遠であることの所以だとする。「法」によって「自分」(人間)がブッダになれる。(成仏する)と考える。
あくまでも、人間から離れない、自分から離れない。「法」が真の自分を目覚めさせるという考えである。
仏陀とは法(法華経)である、だから「永遠」に存在していると解釈している。
人間が人間のまま、「法」の助けを借り、人間の力で(自力で)本当の自分を見つけようとする。

しかし、仏教には人としての限界を感じ、他力にすがろうとする者のための教えもある。
自分を捨てて、阿弥陀仏や観音さまに帰依することにより、仏の心を取り戻し、本来の自分に帰ろうとする道である。(仏教はここで変わり、キリスト教に近くなった)
キリスト教では、人は神(愛)から生まれて来たもの。人は「神を宿す器」であると考える。
人は神を宿し、神の愛が人を生きた者とするという教えである。

釈迦に宿っていた仏(ブッダ)は、遠い昔の菩薩の心にも働いており、未来の私たちの内にも宿っている。
「永遠のブッダ」とは、内に宿る仏(神)の永遠性を示しているのだ。
仏陀と内生する仏が一体である、という考え方から「永遠のブッダ」という表現になった。
これがもう一つのとらえ方である。

「永遠のブッダ」というのは、根本にある仏(大いなる生命・神)に通じている仏陀、神(永遠の仏)と共にいる仏陀ということを言っているのだと思う。だから永遠でありえるのである。神は永遠であり、神の愛と慈悲の心も永遠であるがゆえに、久遠の教化が可能なのである。

釈尊は自己を二重表現しているのです。
限りある命に生きる有限な自分と、自分の中に存在する永遠なる仏としての自分。だからブッダは遥か昔から覚っていたのであり、これからも永遠に無上の教えを説き続けることができるのです。人が有する永遠性、つまりそこには神と仏が臨在しているということです。

イエスが自分と内に宿る神を二重表現しているのと同じです。「我を見しものは、神を見しものである」と。
見方によって人でもあり、神でもあるのです。

ここが、宗教(人と神を結ぶ教え)になるか、人間の思想(哲学)で終わるかの分岐点なのだ。
私は、「慈悲の心」をもとめる仏教は、宗教になりえると考えている。だから単に「法」に留まることなく、慈悲の象徴である阿弥陀仏や観音さまに帰依しようとするのは良いことだと思うのです。自らを空しくし、仏心に近づこうとしているのです。

神を、なにか遠くに存在する絶対者として(分離して)考えていたら、自分のこととして受け止めがたいが、愛であり慈悲であると思えば、自分の中心に内生するものとして受け止めることができる。(現にそうだと思う)
信仰とは遠くを仰ぎ見るものではない。分離や逃避ではなく、内に帰る、中心に帰るということである。
だから自分を喪失することにはならない。かえって本当の自分を発見することになるのだ。神につながるとはそういうことである。

○ 自力と他力

真の自分を取り戻そうとする。そのことは同じなのだが、自力と他力では信仰している対象が異なる。
「自力」は、自分の力で何とかしようとするのだから、人間主義に陥りやすい。「自分」を信じている。仏心は自分自身にその源があると考える。人間(自分)信仰なのである。真の自己への目覚めを、「法」と自分の力によって行おうとする。自分発見である。

一方「他力」は、仏心の源は仏さま(神)にあると考えるから、自分を捨てて、仏に帰依しようとする。これが本当の信仰だ。仏の慈悲(神の愛)に立ち帰ることによって、本当の自分を回復しようとしている。離れてしまった神と人(仏と私)を再びつなぎ合わせる。Re-ligion(宗教)なのだ。

愛は神から来るもの、慈悲の心は仏から生じるもの、そう感じる人は他力の道を行く。
神の愛があって、真の自分(生かされた自分)がある。

二つの道は、根本が異なる。神か人か、神と人を一体として考えるか・・・
仏教はある時期から徐々に進化し、新仏教として仏を求めるようになった。(久遠の教化を受けたと言ってもいい)

神が「内生」しているとは、神と人とを分離して考えるのではなく(どちらかに偏って考えるのではなく)、内に宿すということであり、神の愛によって自分が生かされるということなのである。それが新しい自分(生まれ変わった自分・本当の自分)の発見となるのである。

内生する神の愛によって生きているんですよといえばそれは「他力」であるし、そうして生かされている自分こそが真の自己なのです、その自分を信じなさいというならば「自力」とも言える。神と一つになった(神とともに生きる)自分を信じなさいということである。

○ 内生する「愛」としての神

神を自分から離れた超越者だととらえるから、信仰が神へと向かわないのである。(遠い存在のまま)
神は自分の中に内生する「愛」が神であると考えるならば、自分の内に慈悲の心が生じる(仏性がある)理由がわかるし、真の自分がどうゆうものかがわかる。

神は愛の泉であり、自分が愛することの限界が来た時、神に求めれば神から(心の奥底から)愛する心(慈悲の心)が湧き上がってくるということになる。事実、イエスは自分が語る言葉は、神から与えられた言葉であり、神が語っているのだと言い、神が私を通してあなた方を愛しているのだと言った。

これは皆においても同じことであり、そのような体験のある人は、信仰の意味が分かることでしょう。生きた人(真の自分)とはいかなるものかがわかるでしょう。
自分を通して神が働いているという感覚を知っている人は、その愛がどこから来ているかということがわかるはずである。だから謙虚になる、他者からの愛もその有難さがわかる。神に感謝する。

愛に包まれているという感覚が、神と共にあるということであり、愛が天国をもたらすのである。
「感謝」の言葉しかない。

神は愛であり、仏は慈悲なのだから、自分の中心に「愛」をおいて生きる。自分の中心に「慈悲」をおいて生きるべきである。それが本当の信仰の姿なのではないかと思うのです。そうすることによって、真に生かされた自分になる。神とともに喜びを分かち合える(感謝できる)人間になれると思うのです。

○ 私の宗教観

私は、いろんな経典を読んだり、聖書を読むこともあるが、自力だけで自分が何とかなるとは思っていない。神様に助けを求めるし、念仏を称えることもある。観音巡礼に参加したりもする。イエス様や観音さまや阿弥陀さまの力をお借りすることもある。神様の導きを信じている。大切なのは、あくまでも神の愛と慈悲の心を自分の中に宿すということなのだ。

愛は神から与えられるものだと信じている。

私の信仰の基準は子どもにある。(重度の知的障害を抱えている)
私は、障害のある子供をおいて、自分だけが救われたいとは思わない。救いの道があるとするならば、障害のある子供でも救われる道でなくてはならない。それが、私が宗教に向き合う上での大前提である。

特定の宗教宗派にはとらわれない。(とらわれようがない、この子にはわからないのだから)
言葉を話せず、その意味も分からない。「法」は全く意味を持たない。念仏も題目も唱えない。阿弥陀仏も観音さまも興味がない(ドラえもんでさえ関心がない)。聖書も読まなければ、お祈りもしない。十字架の意味も分からない。他者に奉仕したり、善行と言えるような行動もとることができない。ただ、愛されればニコニコしている。(それだけだ)

彼にとって意味のあるもの、救いとは、「愛と慈悲」それだけなのである。
神が愛であるということ、それが彼にとっての救いであり、行きつくべき場所なのである。
愛と慈悲があればいい。私は基本、宗教をそのように見ている。

2025.3.12