法華経とその向かうべきところ

法華経は『諸法の王』と呼ばれる、仏教の代表的経典である。法華経は何を説いているのか。
まずは、ざっと法華経の内容を振り返ってみよう。

一貫して言えることは、「原始仏教の原点に帰れ!」ということである。

大パリニッバーナ経より・・・ブッダが涅槃に至るまでの最後の旅を描写
釈尊の遺言は「自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法をよりどころとして、他のものによることなかれ」というものであった。仏陀は法の中に生きている。頼るべきものは法と自己(自分)

○ 一仏乗へと導く

「三車火宅の譬え」・・・火の中から息子たちを導きだし、本物の牛車を与える。
声聞乗、独覚乗、菩薩乗に分裂していた仏教を一仏乗にまとめた。仏に至る道はただ一つですよと。
このように法華経は、分裂した教えを一つにまとめる役割をはたしている。

○ 真の自己への目覚め

「長者窮子の譬え」・・・真の自己に目覚めよ
出奔した息子が、50年の貧困と流浪の後、父親のものに帰ってくるというストーリー。
息子は「この上ない宝物を求めずして自ら得た」(無上宝聚不求自得)と語った。
思いもよらぬ宝物を得たとは、仏性を得たということである。
ブッダ=目覚めた人(自己に目覚めた人)
成仏とは、真の自己に目覚めるということなのである。失われた自己を回復するということでもある。

○ 仏教の平等思想

「薬草の譬え」・・・それらの薬草は、すべて同一の大地に生えて、同一の味の雨水によって潤される。
薬草にはいろんな種類があるけれども、(その個性はそのまま受け止めつつ)
同じ大地に根差し、同じ雨水の恩恵を受けている。
多様性を認めつつ、その違いを超えた普遍的な価値があると言う。
仏教は、みんなが仏性をもつことが出来る、誰しもが菩薩になれるのだという平等思想である。

○ 「法」をより所とせよ

仏陀の死後、仏舎利(ストゥーパ)信仰が起こる。お墓(釈尊の遺骨を納める塔)を崇める。
→ 釈尊の遺言は「法と自己をよりどころとしなさい」である。私は経典の中にいます。
ストゥーパ信仰から経典信仰へとシフトします。

自分は法によって覚った。遺骨よりも経典にこそ自分の姿がある。

「法華経」という経典に、仏陀が体得した法が説かれている。
その法華経と衆生が一体となることによって、衆生は誰であっても成仏できる。
法の下の平等を説いている。(平等思想)

妙法蓮華経に帰依する、ということが大切。
そこから、「南無妙法蓮華経」というお題目を唱える宗派ができたのである。

○ 「衣・座・室の三軌」

この法の実践を貫くことは大変である。ゆえに、必要とされる規範を説いた。
「菩薩は、如来の室に入って、如来の衣を着て、如来の座にすわって、この法門を四衆に説き示すべきである。」
衣(え)・・・忍耐(忍辱)に対する喜び
座(ざ)・・・あらゆる物事が空だと覚ってとらわれないこと
室(しつ)・・・一切衆生に対する慈悲を表す
つまり、どんなに嫌がらせをされたとしても、それにとらわれることなく、耐え忍び、慈悲の振る舞いを貫き通しなさいと教えている。

地上における道筋はこれで整った、次の段階である。

○ 虚空へ

舞台は霊鷲山から虚空へと移る。(心は現実世界から虚空へと向かう)
哲学(思想)から宗教の領域へと変わってゆく。人の考えでは及ばない神の領域である。

「法」とは本当の自分に至るための道のことである。
シンプルだけども、真の自分を見つけるのは簡単じゃない。
本当の自分は見つかるのか? 虚空へと本当の自分を発見するための旅が始まる。

肝心の「自分」は空っぽである。
煩悩(自己中心的な欲望)が渦巻いている。ここが難しいところである。
自分を捨て、仏性を見いだしてこそ、「本当の自分」に出会うことができる。

○「永遠のブッダ」が示すもの

提婆達多と龍女・・・・悪人でも救われる(悪人成仏)、女人でも救われる(女人成仏)

滅後の弘通は難しい。
貴乃花は横綱昇進の際の口上で「不惜身命」と言った。この言葉は法華経の中から引用された。
そのくらい覚悟が必要なのである。

結局、「自分」というものに行きつく。(自分と向き合う、自己変革に取り組む)
容易ではない道であるがゆえに、仏陀は「永遠のブッダ」として、つねに民衆と共にあって教えを与え続けると約束されたのである。

「永遠のブッダ」をどのようにとらえるか、
これは、イエスは神か人かという問いと同じように、信仰において重要なポイントとなる。
人間信仰に留まるか、永遠である神の本性(愛と慈悲)に近づくかの瀬戸際になる。

多くの仏教思想家は、仏陀は悟りを得た人=覚者であり、あくまでも人間であると考える。
だから人間主義の立場を取られる。仏教は人間の追求である(一神教とは異なる、厳密に言うと宗教でないかも)。
神を認めないのであれば、「永遠のブッダ」とは法の永遠性と理解すればいいのか。

思想家は仏教を哲学としてとらえる。(生きた神にはつながらない)
しかし神を否定すると、そもそも人間はなぜ存在し、仏性はどこから来ているのかという問いにもつながる。

この問いは深いものなので、後の稿にゆだねよう。

○ 久遠の教化

「地涌の菩薩」・・・地面から無数の菩薩が湧き上がり、娑婆世界の難題に取り組んでゆく。
「久遠実成」・・・釈尊は、はるか昔にすでに覚っていた。

これは、神の愛(仏の慈悲)と法の永遠性を語ったものである。仏陀の内に宿る「法」と「慈悲」は遥か昔から存在し、教えを説き続けてきているのだということです。釈尊は一人であるにもかかわらず多くの如来が存在する。その多くのブッダを釈尊に統一するという意図があった。私は遥か昔にすでに覚っていて、その後いろんな名前の如来として登場してきたのだと言うのである。そして涅槃に入ったというのは方便であると主張する。

「良医病子の譬え」・・・会いたいと思うなら、法華経を学び、熱心に私を求めれば私は現れる。
涅槃に入ったというのは方便であり、私は久遠の教化をおこなっていると釈尊は言う。

ようするに「法華経」という永遠の法の中に生きているということなのだろう。

○ 法華経のフィナーレ

「法華経」を実践するためのモデルが必要 → 常不軽菩薩の登場

宮沢賢治が『雨ニモマケズ』の中で、「そういうものに私はなりたい」と言っていた“デクノボー”は、常不軽菩薩をモデルとしている。ここに、釈尊が示した我々の目指すべき菩薩の姿がある。

「常不軽菩薩の話し」
サダーパリブータ(常不軽菩薩)・・・「私はあなたを軽んじません」と語りかけるだけの菩薩。
この菩薩は、経典は読んでいないけど、人間を尊重するという行為は貫いていた。
人々から馬鹿にされ、見下されながらも、耐え忍び、慈愛に満ちた態度で相手に接した。

「私はあなた方を軽んじることはありません。あなた方は尊い仏性を備えており、如来となられる方々なのです。」そうして人々を尊重した。このふるまいが、「法華経」の教えにかなっていたのである。常不軽菩薩は法華経の体現者となった。

この話しは非常に面白い(興味深い)。「法」をより所としなさいと言いながら、経典を読まないサダーパリブータを、人々を軽んじない(馬鹿にしない、見下さない)、人を大切にする(人間尊重)という理由で、法華経を体現した者と認めたのである。

法華経の教えは柔軟で寛容である。(形式的なものではなく、ものごとの本質を見つめている)
広く言えば、仏教徒であるとかないとか関係ない。仏教でなくても生命を尊重している、人間を尊重しているならば「法華経」だということになる。釈迦の本当の教えは、超教派的なものなのである。

法華経の世界とは、誰一人軽んじられることのない「人間尊重」の世界(差別のない世界)なのである。
人間はありのままで貴い(もともと仏性と備えている)、このことを「法華経」は教えている

人はあるがままで貴い・・・・”人間の尊厳“への賛歌
現世を肯定的に見ているのは法華経の特徴である。人々の中にあってこそ仏教の教えは生かされる。

そして最後に、「常不軽菩薩とは私のことなのですよ」と釈尊が証かす。
釈尊が出した一つの答えが、常不軽菩薩なのである。
全ての人が貴く、軽んじられることはない。差別のない平等世界を目指している。

『雨ニモマケズ』は、宮沢賢治の常不軽菩薩(デクノボー)として生きる為の心得、ということなのだろう。それはすなわち釈尊の生き方でもある。

○ 人の生き方と心の救い

現実の延長線上に未来があるのであって、(目の前にいる)この人たちから目をそらしてはいけない。
馬鹿にされようと、何と言われようと、石を投げられようと、この人たちが将来の菩薩となり如来になるのだ。決して人々を軽んじてはならない。人を大切にしなくてはいけない。(人間尊重)
常不軽菩薩は「私はあなた方を軽んじません」と言い続け、人々に奉仕する。
こういう教えが「法華経」なのだと思う。
そして、常不軽菩薩とは、ほかでもない私(釈尊)のことなんですよと最後に証される。ご自身のことを語っておられたのだ。これが釈尊の生き方だったのである。

これが人間釈尊の本当の姿なのだ。
では、その釈尊の心はどこから来ているのだろうか?
このような生き方は容易にできることではない。それを考えていった時に、観音さまや阿弥陀さまと一つになる時に得られる力(観音力)なのではないかと思うのです。法華経の最後に「観音経」が加えられたのは、釈尊の心の原動力、慈悲心は天から授かっているものなのだと教える為ではないだろうか。宗教の道を開かれているのだ。
神様(愛)と一つになる道、仏様(慈悲心)と一つになる道。
心から湧きいずるそのような力があってこそ、常不軽菩薩のような生き方ができるのではないか。
ここで「法華経」は人の生き方を説くだけでなく、宗教として天(仏・神)に通じる道も示すことになる。

「法華経」には法を中心とする前半の部分と、後に加えられた慈悲心を大切にする「観音経」があり、その内容が異質なものと感じられる方が多くいます。(違和感をおぼえ、どちらかに偏る)
それは、人としての生き方を示す部分と心の救いをもたらす部分と二種類あるからだと思います。
私はどちらも必要なものだと思っています。

「観音経」(法華経第24章 観世音菩薩普門品)は、心の救いに重点が置かれているので、現実離れした(飛躍した)内容が多く含まれています。励ますための内容でもあるので、大袈裟なご利益めいた事柄も出てきますが、表面的なことにとらわれず、意味するところをよくくみ取らなくてはなりません。大切なのは「観音力」が仏の慈悲心から来ているものであるということです。
人には仏に通じる心がある(仏性)、だから慈悲の心は無限なのだということです。

ここで、いったんは終了します。(つづきは続編で・・)

2025.3.8

【追記】
私はふと、フェデリコ・フェリーニ監督の『道』という映画を思い出した。
劇中、「この世に存在するものはすべて何かの役に立っている」と言っていたのは、まるで法華経のようだ。悪人成仏あり、人間賛歌ありで、本当に仏教的なストーリーの映画だと言える。

この稿を書くにあたり、難解なサンスクリット版の「法華経」を翻訳し、的確にわかりやすく解説して下さった、植木雅俊さんに感謝いたします。
サンスクリット版縮約 法華経 植木雅俊訳・解説 角川ソフィア文庫
誰でもブッダになれる法華経 植木雅俊 NHK出版
これらの本を参考にさせて頂きました。
植木さんは、NHKの番組「100分de名著」でも「法華経」を解説して下さっています。

「法華経」初心者の私が、このような大それた文章を書いて本当に申し訳ないです。
熱心な法華経信仰をお持ちの皆様、すみません。
一個人の信仰として、お見逃し下さい。