キリストに倣う

「救い」とは、切れてしまった神との関係を取り戻すことにある。
だから、宗教の意味・その目的はRe-ligion=“再びつなぎ合わせる”ということになる。
神を見失ってしまった人間は、自分を中心において、自分で考え、自分で行動するしかない。
自分のもとにあるのは自分だけ。自分を正当化しながら淋しい孤独な人生を送らざるを得ない。
神は愛である。だから、神から離れるということは、本当の愛を失ってしまうことにつながる。
結果、自分を失い(死んだ者となり)、人とのつながりも薄れてゆく。
キリスト教では「救い」と言えば、イエスの十字架。人類の罪を背負って贖罪されたこと(とりなし)を上げられるが、現代に生きている人にとっては、2000年以上前の遠い歴史上の出来事であり、なかなか身近に感じることは難しい。
それよりも今、生活の中で生きていて、そばで感じられる神の方が大切だ。だから福音書に記されている普段の生活の中での様子、イエスが神をどのようにとらえ、どのように接し、どう生きておられたか、そのことの方が気になる。イエスにとって神とはいかなる存在で、どういう関係を築いていたのかということが重要なのである。
○ 神を宿すということ(内生する神)
イエスが教えて下さったこと。
それは、「神が愛である」ということ。そして、その神を宿し、その愛に生きるということ。
神を宿して、神から与えられた言葉を語り、神の愛と一つになって、その愛を実践していた。
仏教において、仏を宿し、仏の慈愛に生きるのと同じ。
「南無阿弥陀仏」の念仏は、仏に帰依し、仏と一つになって、自分の中に仏を宿しながら生きるということである。生活が大切である。それが即身成仏するということなのだ。
人生は「愛の探求」であると思う。神とともに(自分も同じように)愛して、愛を体験し、愛を知る。
愛を知るということは神を知ることである。愛の中で生きることが幸せなのだ。
深く愛した分だけ、深く神を知ることができる。それが神との絆となる。
人によって与えられた使命、背負うべき十字架は異なる。(皆がイエスと同じ十字架を背負うわけではない)だから、自分に与えられた境遇において(我が身の十字架を背負い)、精一杯愛し、乗り越えてゆけばいいのである。

○ 信仰による自立
イエスは法に縛られることのない自由人であった。法の根本にある愛を見つめていた。
律法を成就するために来られたのではあるが、その上を行く「愛」に基づいて行動された。
神の本質は法であること以上に愛なのだ。だから、神を中心として生きるということは、愛に生きるということになる。イエスは神のことを「父」と呼んだ。そしてその父なる神を自分自身の内においたのである。
愛に生きることができてこそ本当の自由なのだ。
神は愛なのだから、人が愛に生きてこそ神は解放されるのである。人は神とともに自由になれる。
イエスは人を大切にし、「愛」によってのみ生きた。
日本人には「和」をもって貴しとする美徳がある。人に合わせる、所属を大切にする。決まり事や常識を重視する。しかし、個が確立していないと、皆に合わせるばかりで主体性を失ってしまう。私とは何かということである。人目ばかりを気にしてしまい、人や組織に縛られがちである。表面上はそうであったとしても、私自身、個人においては「愛」という主体性に基づいて生きてゆきたいと思っている。
信仰とは、どこかに所属することではなく、最終的には神と私との一対一の関係なのである。
憲法で「信教の自由」が保障されているが、それは、個人が神を信じ、神を宿して愛に生きるということを、誰も咎めることはできない。自由であるということである。
信仰は自立を促す。私自身の内に神を宿すからである。(それが確かな主体性を生みだす)
私自身が直接神との関係を築き、神を宿し、愛による主体性を確保するようにならなければ、私が自由になれない。本当の意味で救われない。私の中の愛(神)が解放されていない。私の本質、神の本質は愛なのだから。
私が神を宿し、私が「愛」とならねばならないのである。それでこそ私は自由人である。
私自身が神を感じとり、その愛に生きることが、信仰の自立、主体性、自由を得ることになるのである。
人を真似たり、誰かに指示されたり、組織に管理されたりするのではない。私は私であるから、私の中に宿る神、私の中に生じる愛によって決める。それでこそ本物なのである。最後は私自身、私とともにある神と愛にゆだねていかねばならないのである。
イエスから学ぶべきこと。
神と人との本来のあり方、関係性。神とともに生きるとはどういうことなのか?
「神は愛である」ということを感じとり、その愛を自分のものとすることである。
人生において価値あるものは、最終的に愛のみなのである。神とともに永遠に残るものは「愛」である。愛が永遠の命であると言っていい。
イエスに倣い、イエスのように神を宿すものとなればいい。
まずは、「神が愛である」ことを信じること。信仰によってスタートラインに立つことができる。
そして、神と一つになって愛する。愛すれば共にいる神を感じることができる。
マザー・テレサも「愛するところに神は共におられます」とおっしゃっている。
私も「愛」となることによって、愛において神と一体となれるのである。
神は愛である。神への献身(器として自らを捧げる)は、愛への献身なのである。

○ 愛せることの喜び
「愛せる」ということは素晴らしいことであり、自由を得ることなのである。
愛には悲しみや苦労がともなうが、愛せるようになることは「自由」を得ることであり、神を解放することでもある。愛することができる(人を幸せにすることができる)という幸せ、心の中の神、愛が解放される。自由になる。その自由になることが「救い」なのである。
愛せることの幸せを噛みしめよう。
愛することができるようになる、それが本当の心の解放、自由を得ることなのである。愛は平和(心の平安)と幸福をもたらす。許しがたきを許し、愛し難きものを愛する、恩讐を愛する。「愛せるようになる」こと、それが本当の勝利であり、自由と平和をもたらすものなのである。
神との本来の関係を取り戻し、神の愛に生き、心の中の神を解放する、愛に自由を与える。
それが真の「救い」なのである。
愛は、エントロピーの法則を克服するだけではない。人生において逆転のストーリーさえ生みだす。不幸にしかならないような絶望的な境遇でさえも覆すことができる。悲しみや苦労を乗り越え、喜びと幸福をもたらし、全てに感謝できるようになる。そのようなことは「愛」にしかできない。だから、神との関係を回復し、愛を自分のものとすることが救いとなるのである。
私が、私の人生において望むべきこと、持つべき価値観は、「愛」になること、神と一つになることそれのみである。私自身において精一杯、愛を形にする(顕現させる、証しする)ことができたなら、それでいいのである。私の中に神がいたという証であり、私は神のものである。
人は神から生まれて来たものであり、人間の本質もまた愛なのだから、愛することができるようになってこそ、本当の自由であり、救いなのである。
堕落した人間の愛には限界がある。どんなに正当化して美化したとしても、自分の枠の中で、自分に都合のいいようにしか愛していない。それは歴史が証明している。だから、戦争や貧困はなくならず、格差と奪い合いは続いている。差別や偏見、弱者への虐待も残されたままだ。人の心の中には、どろどろとした欲望と身勝手な思いが渦巻いているのだ。だから神が必要であり、本当の愛が必要なのだ。

○ 愛に捧げる
私は愛することに献身している。人生をかけている。
愛に献身するとは、神に献身することであり、神と一つになることに他ならない。
神を宿す器となり、愛を実践する。愛に生きる。
愛を体験することが人生において価値あることであり、永遠の命につながる生き方なのである。
愛することに捧げ尽くしたならば後悔はない。人は神を宿し、神の愛をあらわす為に生きている。
すべてを与え尽くす死さえも愛なのである。
「神が愛である」ということを信じ、私自身も「愛する」と心に決めること。(これが大切)
そうすれば、私の内に神が宿り、私の心に働き、助け、神ご自身が私を通して愛して下さる。
その時、愛することにおいて、神と私は一つなのである。そして、さらに愛する力を与えて下さる。愛する思いが湧き上がってくる、その一体感が何よりの喜びであり、愛の解放、自由を得ることになるのである。
私の愛に神の愛が重なる。神の愛により、我ならぬ我、私以上の愛となるのである。
神と一つになる境地は「愛すること」によってのみ得られるものである。
神を信じ、愛すると決めたなら、後は神が働き、神が愛して下さる。
私の心の限界など問題ではないのである(愛するのは神である。愛は神から来ている)。
神の愛は無限である。神の愛ゆえに、私も愛することができるのである。今まで愛せなかったものまで愛せるようになってゆく。神が愛する力を与えて下さる。
子育てをしていて、何度もう無理だ、もうこれ以上愛せないと思ったことだろうか、それでもまた愛する気持ちがが湧いてくるのである。
マザー・テレサを見て、どうしてあのように無限に愛することができるのだろうと、思ったことはないだろうか。あの愛は神から来ているのである。神が愛しているのだ。マザーは器としてご自身を捧げ、その愛と一つになっているのだ。
人生で一番充実していた瞬間は、神と一つになり、共に愛していたその瞬間である。その愛は永遠のものである。

○ イエスの十字架
「神は愛である」ということを教えて下さったのがイエスである。
しかも、その神は遠くにおられるのではなく、自身の中に宿られていて、共に愛して下さるということを証明された。神が内に在って語り、愛されるということを見せてくれた。
十字架という最も困難な状況にありながらも、神が愛であるがゆえに、共に愛することができた。神が愛であることを身をもって証明することができたのである。
安易な状況で愛を語るのは誰にでもできる。最も困難な場所で愛することができてこそ本物なのだ。
イエスの十字架は神とサタン(悪魔)との取引の場でもあった。
罪深き人類が神のもとに帰れるように、身代わりとして罪のない神の子であるイエスを差し出し、代理で贖罪をおこなうことにより、「とりなし」をしたのだと言われている。
イエスの十字架を境として時代は変わり、神と人との関係が劇的に変化する。神が人の内に愛として宿るようになった。神に帰る道ができた。
イエスが十字架上で勝利しで以降、人が求めれば神は答えることができるようになったし(祈りが通じるようになった)、イエスと同じように人は神を宿すことができるようになった。
山や石や神殿に神がいて、それを拝むのではなく、人間自身が神の幕屋(神の宮)となったのだ。神は外にあるものではなく、内に宿るものとなった。
旧約聖書での律法の教え、そこでの神と人間の関係(仰ぎ見る神、畏れるべき神、主従の関係)と、イエス以降、新約聖書での愛の教え、神と人との親子の関係(内在する愛の神)は、信仰の質(次元)が異なるのである。イエスのとりなしにより、神と人との関係は確実に近くなった。Re-ligionの目的を果たしつつある。
イエスの復活により、逃げ去っていった弟子たちが悔い改めると、イエスと同じように神を宿す者となった。弱虫だった彼等が以前とは比べものにならないほど強くなって、神の言葉を語り始めた。この事実が、イエスの勝利を物語っている。
イエスには二つの立場がある。人としてのイエスと神(愛)としてのイエス。
その二者において葛藤があり、闘いがあった。そしてイエスの内に在る愛が勝利を収めたのである。
イエスは人の悲しみと苦しみと痛み、そして神の心と神の愛の両方がわかっていたのである。だからその懸け橋となり、救い主となれたのである。人が神の愛へと帰る道を切り開いたのである。
どちらか片方の立場しかわからぬものでは、架け橋にはなりえない。
最も悲惨な捨てられた人間の立場と、神の悲しみの両方を知っている。そのすべての事情を包み込み、赦し、愛したのである。

○ 人間イエス
人間イエスに対しては寛容であるべきだと思う。
イエスも人である以上、人として自分の思いや願望があり、痛みを感じる生身の体でもあった。時には怒り、嘆き、弱音を吐くこともあっただろう。それを責めてはいけない。イエスは懸命に神の愛に生きようとしていた。それを讃えるべきである。イエスを神格化して、あまりにも高くにおいたり、またはその逆で、人間的な行動や言葉につまずいたりしないようにしよう。
神を宿しているということにおいてイエスは神であるが、イエス自身は生身の人間であり、我々と同じように痛みを感じ、悲しみも恐怖もあったのである。だから、常にイエスは神と対話していた。(自分の弱さに負けないように)
人間イエスは、本当は恐れていたし、(怨讐を愛し切る)自信も無かったかもしれない。
人の心、人間の愛には限界がある。「なぜ私をお見捨てになったのですか」と恨みごとを言いたくなった。「この盃(十字架)を遠ざけて下さい」とも頼んだ。ゲッセマネの丘で、悩みに悩んで祈っていた。しかし最後には覚悟を決めて、「御心にゆだねます」と言った。神が愛されるのであれば、私もともに愛しますと決意したのである。故に神の愛が働いて、イエスは勝利者となったのである。(この決心が重要なのだと私は思う)
人間に(自分に)できるかどうかの問題ではない。神がやるのだ。神が愛するのだ。
イエスは神とともに愛する道を選んだ。
神と一つになってからのイエスは、どこまでも強かった。神の愛が宿り、愛の力がイエスを支えた。
神を宿す、神と一つになり愛の実体となる。ゆえにイエスは人でありながら神であり(神と一体)、神の子であると言えるのである。神の栄光(愛)を顕すことができた。地獄のような境遇から復活して、救いをもたらすことができた。愛の勝利である。十字架にかかりながらも、愛によって平安と復活の喜びをもたらすこともできたのである。私たちはここから学ばなくてはならない。
イエスのこの一連の行為は、愛を証明し(神の証し)、救いをもたらしているのである。
○ イエスがもたらした救い
イエスがもたらした救いは、「神が愛である」ということ、その愛を内に宿し、神とともに愛することができるということを証明してくれたことにある。
私たちも神と一つになれば強くなれる。愛し難きものも愛せるようになるのである。
神を信じて、「愛する」と決意すればいいのである。試練を恐れずに、神の示す方向に舵を切ればいいのである。愛が我々に勝利をもたらして下さるだろう。
キリストの赦し(十字架による贖罪)によって、我々は神のもとに立ち帰ることができる。
帰る道ができたがゆえに、「愛」である神を受け入れることができ、その神とともに愛するという新しい人生を歩むことができるのである。
私たちが本当の救いを獲得するために、キリストに倣う人生を歩むべきである。
愛せない人(愛することに限界を感じていた人)が、神を迎え入れることによって愛せるようになったとするならば、それは間違いなく救われたということである。「愛せる」ということが何よりの救いなのである。幸福は愛によってもたらされるのだから。
○ 決心
イエスはゲッセマネの丘で、「御心のままに」と、神とともに最後まで愛することを決心した。
あとは神様が導き、神様が成して(栄光を表して)下さったのである。(勝利へと導いてくださった)
愛し難きを愛すること。その『決心』をするというのは大切なことなのである。それは自分を超えることでもある。たとえば、障害児が与えられたとするならば、(できるかできないかではなく)まず、「何が何でもこの子を育てる」と決意することである。愛すると決めたなら、その瞬間から神が働き、その為に必要な知恵や手段、人や場所、愛するという「情」に至るまで、すべてが導かれ、神によって与えられるだろう。神と二人三脚で行く覚悟を決めることである。
神は必要な場所へと導き、なすべきことを示されるだろう。神とともに愛すればいいのである。
「神様、どうかこの子を育てるのに必要な人と場所をお与えください」と祈ることである。
キリストと神の名に懸けて、この子を導いて下さるだろう。
「この子と私ども(親)をもちいて、神の愛を顕し給え」と祈るべきである。
愛に至ること、それが最も価値あることなのだから。人生を逆転に導くにはそれしかない。
この子が最重度の子であるということは、他でもない神が一番よく知っていることである。
だから、神が与えて、神が愛し、神が成す。結果は神にゆだねればいいのである。

○ 聖書の言葉
神は愛である。その神は遠くにあるものではなく私の内に宿り、ともに生きていって下さる方なのである。愛の神がともにある、ともに生きている、それが本来の人間の姿であった。これは理論や理屈ではなく、実感の世界であり事実なのである。(祈りで通じ合える、対話できる関係である)
そして、私自身も愛となり、神と一つになり、神と喜びを分かち合える存在となれる。悲しい時にはともに慰め合い、苦しい時には支え合える存在になりえる。神の愛ゆえに、私自身も強くなりえる。そして、永遠に神の愛の世界(神の国)に生きることができるようになるだろう。
ヨハネ第一の手紙 4章16節
わたしたちは、神が私たちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。
ヨハネによる福音書 14章9節〜11節
イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。
わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。
わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。
コリント人への第一の手紙 3章16節
あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。
イエスは最も困難な状況において、人類の罪を身代わりに背負いながら(重い十字架を背負いながら)、神が愛であることを示して下さった。救いの道を開いて下さったのである。
信仰とは、何か漠然と信じるのではなく、神が愛であることを信じ、その神とともに生きる。確信の世界、実感の世界なのである。キリスト教では、それをイエスに倣うことにより学ぶのである。聖書はその真理が説かれているお手本の書と言っていいものである。
ヨハネによる福音書 5章39節
あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたし(イエス)についてあかしをするものである。
そしてそのイエスは、神(愛)について証しをしている。

○ イエスが見いだした愛
イエスが神の中に見いだした愛とはどういったものなのだろう?
イエスは「七の七十倍許しなさい」と言った。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして天にいますあなた方の父の子となるためである。」とも言われた。
このことは、子であるイエスがそうであると同様に、父である神ご自身が、無限の赦しであり、全ての人を愛しているということを意味している。イエスは父のなさる通りにしている。神の愛を証そうとしているのだ。
イエスの言葉、イエスの愛は神から来ている。
マタイによる福音書 18章21節〜22節
そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」。
マタイによる福音書 5章46節〜48節
「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。
障害者の親について、ちょっと贔屓目に書かせていただきたい。
(皆がそうではないかもしれないが)
これらの言葉を重度の障害者の親に当てはめてみると、(障害が治るわけでもないので)数をかぞえるまでもなく、無限に許し続けるということを意味し、どのような姿であっても(愛し難くても)それを受け入れ、愛し続けるということを意味している。
それは、望んでそうなったのではなく、そうせざるを得ない、他に道はなかったのである。愛さなくてはいけない、愛することをさだめられた人々なのである。
こういう愛が、この世の中にはあるのだなあという、絶望の中(どん底)にありながらも、なぜかしら希望と平安を感じることがある。(自分の体験を通して感じる)
神は人を見捨てたりしない。こういう愛があり、こういう神がおられて、その中で生きているということの方が、不思議と安らぎをおぼえる。大変だけれども、こういう愛のある世界で生きてゆきたいものだと思うのである。
愛なんて目に見えないあやふやなものであり、神なんかいるのかいないのかわからない。そうおっしゃられる方もいるかもしれないが、少なくとも私はそういう体験をしてきている。
イエスが言うように、世界を救い得る「愛」があった方がいいのだ。
それが、イエスが見つけた神なのである。
2025.5.25

【追記】
もし仮に、私が無人島に行くことになり、なにか一冊本をもって行っていいとするならば、やはり聖書を選ぶだろう。愛に関するテキストだからである。
今の時代は、イエスの時代のように、死人が甦ったり、不治の病が癒されたり、湖の上を歩いたりする奇跡は起きないかもしれないが(それらはイエスを信じさせるための単なる印である)、イエスが教えようとしたのはそういうことではなかった。
奇跡によって天国ができるとするならば、みんなそれをあてにして愛する為の努力などしなくなるだろう。一時的には嬉しいだろうけど、そんなものでは天国にならないのである。愛のみが真の喜びと天国をもたらすのである。
ヨハネによる福音書 13章34節
「わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」とイエスは言われた。
神は愛である、その神を自分自身の内に宿し、神の愛をもって愛し合いなさい、ということである。神は愛として不滅であり、今も変わることなく働いておられる。愛が人に幸せをもたらし、天国の礎となることは間違いない。今も昔も同じであり、これからもずっと続くであろう。
奇跡に魅せられてイエスのもとに集った群衆は、奇跡によって自分たちに都合のいい神の国ができることを期待したが、イエスが逮捕され、裁判にかけられ有罪となり、死刑に処せられるという、厳しい現実を目の当たりにすると、早々に逃げ去ってしまった。罪は自分の中にあったのである。悔い改めて再び集い、信仰の灯をともしたのは、イエスの本当の教えに従い、愛に生きようとする人たちだった。新しい時代はそういった人たちによって引き継がれてゆくだろう。