仏の子と神の子

宗教(もとの教え)とは、英語でRe-ligion、“再び、つなぎ合わせる”という意味である。
繋ぎ合わせる必要があるのは、離れ離れになっているからであり、離れたことによって失ったものがあるからである。
仏教では、光を失って「無明」になってしまったという。慈悲の光を失ったのである。
キリスト教では、罪を犯したがゆえに恥ずかしくなって神から遠ざかり、本当の愛を失い、楽園から追放されてしまった(失楽園)と言う。不幸な状態に陥ってしまったのである。
「宗教多元主義」によると、地域や文化、人々の個性によって、言葉や表現方法が異なり、多様な宗教が出現するが、その本質は同じであり、最終的には同じ場所にたどり着くと言う。宗教は頑なに自己主張して、対立・分裂・批判・攻撃をするのではなく、相互理解や融和、協力、共助する方向へ進むべきである。
人には、帰らねばならないところがあり、取り戻さねばならないものがあるのである。
その為にあらゆる宗教的修行があるのである。
座禅を組んだり、瞑想にふけったり、祈り求めたり、様々な善行をおこなったり・・
多くの仏典を読み、聖書の言葉を頼りとしてきたのである。
あらゆる自己中心的な欲望を振り切って、本当のものを見つけようとしているのである。
仏教では、「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)と言う。
全ての人は仏に通じる性質「仏性」を備えていると教える。仏は心の中に住み、仏心(慈悲の心)となって顕われるという。
キリスト教では、人は本来「神の子」であり、神性を備えていると説く。
人は神の宮であり、神を宿す器として、自分自身の中に神を宿し、神の愛を顕す者(生きた人)となるはずだったのである。
密教では、人は宇宙に通じ、宇宙と一つになることもできると言う。
大日如来(神)と一つになれば、(神が宇宙を創造したのだから)宇宙と通じるのは当たり前のことになる。自然の美しさ、素晴らしさもすべて理解できるようになるはずである。
なぜそんなことが言えるのか?
元を正せば(本来は)、人は神の子であり仏の子であるからだ。
子は親の持つ性質を備えているものである。
ただ、罪を犯し続けて来た人間は、呵責により心が閉ざされている。(神に対して顔を上げることができない状態。心をむけることができない、信じることができない、感じ取ることができない。)自己中心的な欲望にとらわれ、「自分」に凝り固まっている人(我執)にはなかなか難しい。抜け出すことができないでいる。神のもとに帰れない。神性を取り戻すことが難しい。
宗教は、自分を捨てなさい。無となりなさい、空となりなさいと言う。否定から始まる。
空っぽになって本当のものを見つけなさい。感じ取りなさいと教える。帰る道を開く為である。
それでも難しい。
自力で救われることが難しいから、メシア(救世主)的存在や覚者(悟りを開いた者)を求め、とりなしにより、許されて帰る道を必要としたのである。
他力救済はなぜ成立するのか?
それはそもそも、神が求めているから、仏の願いがあるから、帰る道があるのである。(他力にすがることができる)神は全き愛のお方であり、仏は限りない慈悲の心を有する方だからである。
神が愛でなかったなら、我々に帰る場所などないのである。
イエスの十字架による代理贖罪や法蔵菩薩の念仏往生の願(第十八願)などがそうである。
イエスを信じ、イエスと一つになることによって神のもとに帰る。
あるいは「南無阿弥陀仏」、念仏を称えることにより、阿弥陀仏に帰依し、慈悲の心を取り戻し、仏さまと一つになる(成仏する)、そして浄土へと帰ってゆく。
しかし、現実世界は頑として変わろうとしない。
だが、何千年かかろうと、何万年かかろうと、人はこの道を行くしかない。
神の愛は永遠であり、慈悲の心はどこまでも慈悲の心であり、変わることがない。
ゆえに、神(仏)は我々を待ち続けるであろう。
私たちは「神の子」であり「仏の子」なのである。
愛と慈悲を取り戻し、神さま仏さまのもとで、慈愛に包まれて暮らすのである。
それが、帰りついた浄土でありエデンの園(天国)なのである。
ここにたどり着いて初めてRe-ligion(宗教)はその目的を果たしたということになる。
離れ去ったものが帰ってきて、失ったものを取り戻したということである。

○ 存在の根底にあるもの
自分の存在の根底にあるものが何なのか、よく考え、確認しなくてはいけない。
それがその人の生き方を決定づけるからである。
人は愛から生まれてきたということを忘れてしまっている、このことが大きな問題なのだ。
愛を知り、人は愛に生きるべきである。
結果は御心に委ねるのだが、どう生きるかは本人が決めることである。(主体性が問われるところである)
私が導いているのではないし、私一人で決まることでもない。だから、結果は委ねるものなのである。
大切なのはどう生きるかだ。全力を尽くし、やりきることだ。
宇宙の根本に、自分の存在の根底に愛がある、慈悲があると思えれば、人生が明るくなるのではないでしようか。

○ 人にとって大切なこと
人にとって大切なことは、愛そうと思うこと、愛したいと願うこと、愛し始めることである。
実際には、人の思いには限界があるが、愛し始めたなら神様が助けて下さる。自分の思いではなく、神様の愛があふれだしてくる。心の奥底から愛が湧き上がってくるのである。そして導かれてゆく。
愛は神から来るものである。
だから、大切なことは、神様と歩む方向性を同じにすること。同じベクトルの上を歩むこと。
神様と一つである限り、愛は無限にあふれてくる。
そして神様により最善の方向へと導かれてゆく。全ては神によって準備されているのだ。
大切なのは、「愛する」という方向へ歩みだすことである。(そこには自分の意志が必要なのである)
自分が愛するのではなくても、歩む方向は同じでなくてはいけない。だから愛そうとしなければならない。
愛するところには神がともにおられる。神の顕現である。
神の愛の支えがあるから、人はどこまでも強くなりえる。

○ 清らかな心を見る
「仏縁」は必ず結ぶことができる。
人は神の宮であり、仏性を有している。みんな神を宿すことができるのである。
その人の一番清く、綺麗な心を見つめなさい。それを褒めて高め、絆を結ぶのです。
(人は自分の仏心を褒められるのが一番嬉しい)お互いの仏の心でつながり合うのです。
疑いの目をもって人を見てはいけません。
誰しも穢れた一面はあるものです。あえてそれを指摘し、引き出したところで何の得にもならない。
清い心を高めてゆくことによって、穢れは自然に消滅してゆくものです。
何に働きかけるべきなのか、よく考えてみるべきです。
穢れた一面を指摘するばかりでは、(それが真実であったとしても)誰とも繋がることはできない。
人を信じることができなくなる。喜ばしい結果にはならない。それは、見ているところが良くないのです。
清らかな心を見て、信じることが大切なのです。そうすれば、愛(神)は働きやすくなる。
仏の心が高まれば、仏縁は強くなる。
2025.3.1
