神思う、故に我あり

初めが何であるかはとても大切なことです。
それを理解するために、まずデカルトと柳宗悦の言葉を紹介しましょう。

デカルトは「我思う、故に我あり」という命題で有名です。
これに対し、柳宗悦は宗教思想家であるので「神思う、故に我あり」と、我よりも先に神(愛)を立てました。私という結果から推察したのではなく、原因(神)から見つめたのです。

「我思う、故に我あり」(デカルトの言葉)という発想だと、思っている私が出発点です。
たとえその思いが愛であったとしても(愛したつもりでも)、私から出発したものは私に帰ります。夢があったとしても、私の夢でしかありません。「自己実現」が当面の目標となります。そして、自分を中心とした関係しか築けません。限界があり、自分(自分の思い)以上のものにはならないのです。「我」が強くなり、自分を押し通す人間になりがちです。衝突も起こりやすいです。もちろん、中には素晴らしい思いを抱いている方もおられますが・・・
最後には自分に帰結し、自分一人となり、孤独です。(自己満足でしかありません)マイ・ワールドができるのかもしれませんが、そこに真の愛はないので淋しいものです。

神から離れてしまった人間は、私(自分の思い)しか見えなかったのです。私が私を生み出したわけでもないのに(気が付いたら存在していた、結果的存在である)、勝手に自分を自分のものとし、私から始めてしまったのです。そこに矛盾(無理)があるのです。

デカルトは哲学者としてはすごい人物だったのかもしれませんが、その発想は自分を掘り探っただけで、神から来たものではありません。(人間の理論です)

しかし、「神思う、故に我あり」という発想だと、まず初めに神が存在し、「愛」があって、その上で私が存在します。神は愛です。だから、愛がスタート地点になるのです。
愛があって私がある。私があって愛があるのではありません。(愛は脳から発生した現象ではない)
私という存在よりも、愛のほうが先なのです。愛がなければ美なるものは何も生まれてきません。(混沌として、虚しいだけです)私は愛から生まれてきたものであり、愛によって生かされているものです。「生かされている」という感覚があります。

自分ではなく、愛が出発点ですので、愛に帰ります。
だから、「自分が」という思いは少なく(無私で)、愛と一つになり、愛とともに生きるという姿勢になります。自己実現というより、愛の理想を実現したいと思います。「神が思う」、その神の理想を実現したいと思うのです。それが初心です。

神の愛が原動力であり、常に神とともにありませので、孤独ではありません。人々は愛によって結ばれていますので、自己中心にはなりません。自然と愛を中心とした輪ができます。すべての人は愛によってつながっているのです。我と我のぶつかり合いではなく、美と調和と平和が生じるのです。愛によって築かれる世界は「愛の世界」です。天国とも言います。

人を愛したとしても、自分が愛したと思う以上に、神が私を通してこの人を愛しておられるんだととらえます。(そう感じるのです)「愛は神から来たものである」、とイエスは言います。神と一つとなり、神の愛を顕すことが喜びであり、その栄光は神に帰すべきものなのです。

私には限界があり、「我思う」といくら思ったところで、未来は見えてきません。常に不安がつきまといます。
しかし、「愛」(神の愛)に対しては、絶大な信頼感がありますので、未来に不安はありません。信じているから希望があるのです。未来が開けてゆきます。
神は、アルパ・オメガ、初めであり終わりであります。愛に始まり、愛の世界に帰結します。紆余曲折の過程を通過したとしても、必ず愛に包み込まれ、愛の世界へと収斂します。神は全き愛の方だからです。

初めが、愛(神)であるか、私であるかで、これだけの違いが生じるのです。自分よりも先に、愛をおくべきだったのです。

言い方を変えると、人間中心主義ではなく、愛(神)を中心として生きなさいということです。

「神思う、故に我あり」という言葉は、柳宗悦が語った言葉です。
こういう発想ができる人は、宗教人として素晴らしい資質のある人だと思います。自分の考えを主張するのではなく、あくまでも神からの言葉(インスピレーション)を優先する人です。宗教界に革命をもたらす人物の一人だと思います。出発点が神であり、愛なのです。

この二つの言葉は、私とは何者なのかと言う、「存在」に対する問いかけでもあります。「我思う、故に我あり」だと、私は私でしかありません。私の思いから離れられません。
「神思う、故に我あり」の「神思う」(神の思い)とは、すなわち愛のことであるから、「愛があるから私がある」と解釈することができます。私は私である前に、神の愛なのです。思っている私が私なのではなく、神から来る愛が真の私なのです。(私の根本、私を形作っているもの)だから、私心なく(神の愛をもって)人を愛することができるのです。

私の本質は、単なる私の思いではなく、「愛」なのだということです。だから、愛になりきることができるのです。
現に、今も神は愛として私を通して働いているのです。私は、神を宿す器であり、神の愛が通過する通過体なのです。

こうして比較して見ると、人が罪(原罪・積み重ねられてきた罪)を犯し、神から離れて、愛を失ったということがどれほど大きなことか、今にして思い知らされます。戦争や貧困、人々の不幸、地獄のような世界は、このような事実が根底にあり生じていたのです。

だから、宗教とは神に帰ること。切れてしまった神との関係を修復する、再びつなぎ合わせる(Re-ligion)を目的とします。神に帰るということは、一大転換をもたらすのです。(大革命であると言ってもいい)
私たちは神に帰り、再出発しなければならないと思います。「愛」に帰り、愛からまた生まれ直さなければなりません。生まれ変わるということです。愛と切れてしまった私ではなく、愛から生まれてきた私となるのです。それは、私も愛となる為です。

イエスも『新生』について語られています。

ヨハネによる福音書 3章3節
イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。初めを「愛」にするために、もう一度生まれ変わりなさいと言っているのです。
神の愛に立ち返る。愛から生まれる者は愛となる、ということを言いたいのでしょう。

愛からは、独裁者や自己中心的な人間は生じません。
自分の思いから出発する、自分を中心におくから、愛しているつもりでいても、自分に返そうとするようになるのです。(それは偽りの愛です)世の為、人の為と思いながら始めたことが、いつの間にかおかしくなり道を誤って、独裁者になってしまうのは、そういう背景があるからだと思います。

「愛」には私心がなく、常に利他であり、相手の幸せを願います。与えたいと思う気持ちです。人が幸せになることによって、自分も喜ぶのです。調和と平和、美しい世界、喜びの世界を生み出す(創り出す)ものです。自分がしたとは思わないので、驕り高ぶり、傲慢になることもありません。

愛については聖書が教える通りです。ぜひ、聖書に書かれているイエスの言葉から学んでください。「山上の垂訓」やイエスの譬え話、ヨハネの手紙などが参考になります。

愛には、戦争や奪い合いはありません。我と我のぶつかり合いもありません。人と人は愛でつながります。中心にあるのはいつも愛なのです。だから、その愛が人々に天国をもたらすのです。「互いに愛し合う」ようになるのです。

私たちは、生涯をかけて神の愛を学び、体験してゆくのです。
そして、永遠の世界においても、愛の中で生きるのです。

【考察】

ウィキペディア(Wikipedia)より
「我思う、ゆえに我あり」コギト・エルゴ・スム
cogito ergo sum(ラテン語)
「信仰」による真理の獲得ではなく、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこうとする近代哲学の出発点を簡潔に表現している。デカルトが「近代哲学の父」と称される所以である。

哲学において「何が真実か」という議論を「何が疑えない事実か」という議論にシフトすることで、デカルトは間違いなくキリスト教的な神中心の真理探求を人間の理性に基づく真理探求へと変えた。

デカルトの人間中心主義的な観点は、啓蒙主義として、哲学がキリスト教と教会から離れるきっかけを作った。デカルトの哲学は、現代の人間中心主義や主観主義の原因になったと言われる。

以上、ウィキペディアより一部抜粋。

デカルトの思想により、人々は信仰に対して懐疑的になり、人間の理性に基づいて現実をとらえるようになった。「啓蒙思想」と呼ばれた人間中心主義の始まりである。しかし、人間自身に真理があるわけでもなく、全き愛があるわけでもない。人間の欲望は、自己を正当化しつつ、今のような世界をつくった。貧困と奪い合い、戦争は終わることなく、地球環境まで破滅に近づいている。神から離れ、愛を失ったことが致命的なことだったのだ。

一つだけ、デカルトを擁護できることがあるとしたなら、その背景に、信仰を偽装して私利私欲を貪っていた、中世のキリスト教会の腐敗に対する反発があったということである。反旗を翻すことが、人間の良心から見て正義であるかのように思われたのだ。

しかし、神を捨てて、人間中心主義に走ったのは間違いであった。新たにより深刻な問題を引き起こす原因となった。

もし本当に、偽りの信仰によって生じた、その腐敗した世の中を正そうと思うのなら、「真の信仰」を追求し、確立して示すべきであった。幸福の源泉は、真の愛にこそあるからである。(堕落している、煩悩を持つ)人間によって保障されるものではない。だから宗教は、自分を捨てて、神(愛)にゆだねよ、阿弥陀仏(慈悲)に帰命せよ、と教えるのである。

限界を感じた人は、新たに道を探しつつある。

現に、歴史上、今に至るまで、真の信仰を極めようとするキリスト教神秘主義のような流れも存在していた。彼らは、知性では到達できない霊的な真理を、おもに「キリストに倣う」ことにより、把握しようと努めた。

パウロやアウグスティヌス、マイスター・エックハルト、スウェデンボルグ、ウィリアム・ブレイク、リジューのテレーズ、マザーテレサ、柳宗悦、などもキリスト教神秘主義思想家として知られている。

宗教哲学者ジョン・ヒックは、すべての神は「一なるもの」につながっている。「一なるものは」、複数の顔を持つ。だから、神様にはいろんな名前がついている、と言う。

彼の示す『宗教多元主義』は、「自我中心から実在中心への人間存在の変革」である。人間は、神から離れて、自分の思いに生きるようになった。それでは本当の愛はない。だから、『宗教多元主義』とは、「自我中心」ではなく「実在中心」、すなわち「一なるもの」(本当の神・愛)を中心にした世界を取り戻すことにある、と言う。

このようにして見ていくと、時代の流れ、宗教の向かうべきところが見えてくるのではないかと思うのです。

今まで持っていた神様に対する「変なイメージ」を捨てて、もう一度「一なる存在」に向き合わなくてはいけない。愛がどこから来ているかを考えなくてはいけない。

宗教は、真の信仰を見出して、復興すべき時を迎えているのです。

2025.11.22