信仰の基本的なこと


【前書き】

今日は、信仰について書こうと思います。
人によっては、「信仰」と聞いただけで、拒否感が生じ、受け付けられない方もおられます。そんな人には無理には勧めません。強要することなく、なるべく穏やかにお話ができればと思います。

信仰と価値観、思想などは「自由」に属することなので、人に押し付けることは出来ません。
人の生き方や人生にかかわることだからです。自分の人生は、自分で責任を持たねばなりません。だから、自分で考え、自分で気づき、自分で見つけることが大切なのです。人生を選択する(決める)のは自分なのです。
(でも、けっこうそれが難しいことでもあり、助けが必要な時もあるのです。)

それを十分承知したうえで、何かの参考になればいいと思い。気づくための手助けならできるかもしれないと言うことで、次のような文章を書くことにしました。自分に言い聞かせるという意味もあります。

決めつけではないので、違うと思う人は読む必要はありません。道はいろいろあるでしょう。
これはあくまでも、私個人の思いなのです。

今回は「信仰の基本的なこと」ということで、私の大切にしていることを書いてゆきましょう。

  神は愛である

「神は愛である」ということ。
これが私にとって一番大切で重要な最大の福音である。
神を知るためには、愛を知らなくてはなりません。

愛こそが人に幸せをもたらすのであるから、自分の中心におくべき神が「愛」であるということが、何よりの福音なのである。私の中で生きて働かれる神が愛なのである。これほど嬉しく、心強い話はない。

ヨハネの第一の手紙 4章16節
「わたしたちは、神が私たちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。」

神は外からも内からも働かれる。
外からは、「導き手」としての神。他者と繋がり、連携することができる。出会いをもたらし、人と自然を生かし、宇宙全体に調和(平和)をもたらす。
内なる神は、私の内に在って「愛」として働かれる。私は愛によって生きた者となる。
「私の神」という場合、私の内に在って愛として働かれる神と、導き手として外から働かれる神の両方を指す。目には見えないが、その働きをもって知ることができる。

故 遠藤周作は、「神はその働きによって知ることができる」と言っていた。
神は愛であるから、愛として働かれておられる。
だから、神も愛も見えないけれど、働きを通じて感じ取ることができる。確かに神はおられると。

神は愛である。だから、神は感じ取るべきものであり、心の奥から湧き上がるものなのである。

イエスは神を「父なる神」と呼んだ。神は人に命を与えた親(創造主)である。
神は親として子である人間を導かれる。祈るときは「父母」に対するように祈ればいい。神は人間の愛が成長することを願っている。

わからないことがあれば、祈りながら問えばいい。神はインスピレーションを通して教えてくださるだろう。神が「言葉」を与えて下さる。

 神(愛)を宿す器となる

私たち人間は、神の形であり、神を宿すための器なのである。
神は私に言葉を与えるだけでなく、私に宿り、私を通して愛されるのだ。

そして、私たちを通して神の愛は成就される。
人は神と一つとなって愛し、その愛による喜びを神と共にかみしめるのである。神も人も幸せになれる。

神は人に宿り、人を通じて愛を体験したかったのだ。
神が愛のお方であったとしても、一人では愛を体験することはできない。だから人に宿り、人を通じて一体となる愛を感じ、喜びを得たかったのである。人という形あるものを通して、愛の理想を実現(実体化)したかったのである。
人と人(アダムとエバ)が一つとなって愛を完成させることが、その内に宿る神の愛の完成でもあったのである。

コリント人への第一の手紙 3章16節
「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。」

神(愛)を宿す器となる。神を宿し、愛に生きる。
その為には、自分(我)をなくさなくてはならない。中心は神である。
自分を中心に置くか、神(愛)を中心におくかの違いである。(二人の主人に仕えることはできない)
自己中心では、どんなに外見を装っても真の愛にはなりえない。

邪な自分の欲望が渦巻いていたのでは、神は内に宿って働くことができない。
自己否定、自己を「無」にすることが必要である。禁欲や節制が必要になることもある。あえて苦難の道を歩まざるを得ない場合も出てくる。人は心の鍛錬を行ってきたのである。

神の愛に同伴するためには、自己の欲望を制御(コントロール)できねばならない。でなければ、神を宿す器、通過体とはなれない。自らを「無」(空っぽ)の状態にしなくてはいけない自分の欲望のままでは自分に溺れるだけで、無益な(虚しい)一生となってしまう。

古くからの日本語の表現の中に、悔い改めることを「心を入れ替える」、「心を入れ替えて真人間になる」と言ったような表現をすることがある。人は所詮入れ物(器)でしかないのだ。心に何を宿すかでその人がどういう存在になるかが決まる。自己中心な煩悩や邪念を抱けば鬼にも悪魔にもなるし、神の愛や仏の慈悲を宿せばその如くの人間になる。人間は本性において、後者が真の人間の姿なのだと知っているから、真人間になりなさいと言うのである。

多くの人は自分を中心とした邪心に取りつかれているので、まずは「無」(空っぽ)の状態に戻すことが求められる。(仏教の多くの修業がそのようになっている)

自分を否定しなければ、自分の内に働く神(愛)を認めることができない。そこに難しさがある。
多くの人は、「自分」(我)を出し、自分がやったと自分に帰結してしまう。だから、傲慢になるばかりであり、感謝の思いが湧いてこない。(むなしい自己満足で終わる)

罪を犯し、神から離れてしまった人間が、再び神を取り戻し、愛に生きるということは容易なことではないのである。神を感じとることすら難しくなっている。

無なる境地を求めた「般若心経」、
自分を捨てて仏に帰命する念仏、「南無阿弥陀仏」、
仏に至るための法を説いた「法華経」、
阿弥陀仏、観音菩薩、大日如来と一つとなる「即身成仏」。
全ては慈悲の心を宿す、愛に至るための道である。

キリスト教は愛を教えている。
イエスを通して神の愛を知る。聖書の結論は「愛」である。
聖書は歴史書でもあり、残虐な戦いの歴史あり、「目には目を・・」というような厳しい教えもあり、様々な預言もある。しかし最終的に行き着いた結論は、イエスがもたらした「愛の教え」なのである。(だからイエスは救い主であると言える)

神の愛とはいかなる愛なのか?

マタイによる福音書 5章44節~48節
「わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」
「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

愛とは何か、聖書にも書かれていて、比喩やたとえ話しなどで伝えられているが、文字だけではわからない。
愛について知るためには、実際に祈りながら神とともに愛することである。

愛する者は愛を知り、神を知っている。(その愛がどこから来たのか知るようになる)

 悲しみの意味を知る

同時に、愛を知るためには、悲しみについて理解する必要がある。

悲しみには二種類ある。自分に根差す自己中心的な我欲が満たされないことによる悲しみと、愛ゆえに生じる悲しみです。自分自身のことに関しては、これは簡単で自分を捨てればいい。あきらめればいいのです。愛には自分という思いなどないのですから、「無」になればいい。

しかし、愛するが故の悲しみは、人のための悲しみであり、相手に不幸が続く限り逃れることのできない悲しみなのである。(子どもに障害が見つかった時の親の心のように)
だがこれは、相手に寄り添いともに悲しむということであり、その悲しみの本質は癒し(慰め)であり、優しさであり、愛なのです。

「悲」という言葉は奥深いものである。柳宗悦の教えが役に立つ。

「悲」とは含みの多い言葉である。
二相のこの世は悲しみに満ちる。そこを逃れることができないのが命数である。だが悲しみを悲しむ心とは何なのであろうか。悲しみは共に悲しむ者がある時、ぬくもりを覚える。悲しむことは温めることである。悲しみを慰めるものはまた悲しみの情ではなかったか。

悲しみは「慈(いつく)しみ」でありまた「愛(いとお)しみ」である。悲しみを持たぬ慈愛があろうか。それゆえ慈悲ともいう。仰いで大悲ともいう。古語では「愛し」を「かなし」と読み。更に「美し」という文字でさえ「かなし」と読んだ。信仰は慈しみに充ちる観音菩薩を「悲母観音」と呼ぶではないか。

基督教でもその信仰の深まった中世紀においては、マリアを呼ぶのに”Lady of Sorrows”の言葉を用いた「悲しみの女」の義である。「アベ・マリア」とは悲しみの彼女を讃える叫びである。慈悲に人間は飢える。これなくして活くることは出来ぬ。

(柳宗悦 著「南無阿弥陀仏」より)

自分のために悲しんでいるのではない。人のために、愛ゆえに悲しんでいる。悲しみを共にするその思いには、温かみがあり、優しさがあり、癒しを伴っている。だから「慈悲」であると言うのである。

愛(慈悲)以外に人を救いえるものはない。

愛は、他者の為に寄り添い、悲しみをともにします。(ある意味、本人以上に悲しみます)
その悲しみは相手のことを想った悲しみであり、癒しと温もりをもたらす愛の顕われ(慈悲)であり、有難いものなのです。

イエスやマリアの姿を見てわかるように、神もまた愛するがゆえに深い悲しみを持たれている、「悲しみの神」なのである。その悲しみは誰よりも深い。

人は愛を取り戻すことによって、神を慰め、神の悲しみを癒さなくてはならない存在なのです。
苦労の多かった人、悲しみの多い人は、それを愛によって乗り越えたとき、誰よりも神を慰めることができる人となれるのです。(それだけで、苦労の人生を生き抜く価値があるというものです)

悲しみは、寄り添う悲しみ(慈悲)によって癒されます。
悲しみは消えなくても、寄り添えばともに癒しの世界に住むことはできるのです。
悲しみを無理になくそうと思わなくてもいい。ごまかして生きたとしても、そう簡単に悲しみが消えてなくなるわけではありません。この世は悲しみが溢れているのです。悲しみの中でも、生きてゆける方法を知るべきです。

悲しみごと包み込むように愛すればいい。
ともに悲しむことによって悲しみを癒す。これが「慈悲」なのである。涙によって救われる。

悲しみごと抱きかかえてゆく、そういう大きな愛を持つことが大切です。

「悲しみもまた愛なり」である。

神の愛がどのようなものなのか、体験しながら知らなくてはならない。
愛を知るために人生があるのです。愛した者のみが神の愛を知ることができるのです。

 神が愛する

愛するのは神である。

神の愛(真の愛)が、幸福への扉を開く。
受け入れ難きを受け入れ、許し難きを許し、愛し難きを愛することによってのみ、恩讐を越えて一つとなる道が開ける。愛が幸福と平和をもたらす。

愛は神からのもの。神が与え、神が愛する。

自分が愛していると思ってはいけない。(自分以上に、神が愛しているのだ)
「自分が」と思うと結果を自分に帰してしまう。動機が自分なので自分に帰結してしまう。傲慢になり、独善的になってしまう。神を見失ったままだ。神の愛を証しする、栄光は神に帰すというのがベストな姿勢である。

本当の愛は、自分を越えたところに見つかる。だから神は時に限界を超えるような試練を与える。
それは意地悪だからするのではなく、愛に気づかせるために、愛に復帰してもらうためにそうしているのだ。本当は、神は与えたくてたまらない。だから「試練の後に恵みあり」なのである。私たちは、ちゃんと神の愛に気づかなくてはならない。

自分のできる範囲のことなら、愚かにも「自分がした」と思ってしまうからである。(神に気づかない)信仰が必要ない。追い込まれて限界に立った時に、初めて気づくのである。そして、祈りながら歩むようになる。

能力の高い、恵まれた人が後になり、不幸だと思っていた人(悲しんでいた人)のほうが先に、寄り添う神の愛に気づくこともある。愛を取り戻し、救われる順序が逆になることもあるということです。だから、一見不幸な境遇にあるように見えるのだけれども、神の愛に包まれていてニコニコしている人もいるのです。

神様は内側を見ている。「いいと思っていたことが悪くなり、悪いと思っていたことが良くなる。」ということは宗教の世界ではよくあることなのです。

人生に困難はつきものである。自分では乗り越えられないと思うこともあるだろう。確かに自分だけでは無理である。しかし、愛するのは(自分ではなく)私の内に宿る神なのである。

よく「神は越えられない試練は与えない」と言われるが、それは神ご自身が内に宿って愛されるからだ。神には愛せないものはない。神が愛するのだから、越えられないものはない。無になって、神にゆだね、神を宿し、神の愛をもって愛すればいいのだ。神の愛が私を通して働く。そうすれば、私はその目撃者(証人)であり、私という器を提供し、そばにいて共同体験者(同伴者)となることができるのである。

観音経(法華経第24章 観世音菩薩普門品)にでてくる観音力とは、神の愛から生じているのである。一心に「南無観世音菩薩」と念じる、観音さまと一つとなり、観音力(慈悲の心)で乗り越えてゆくという話である。

イエスは十字架を前にした時、この杯(十字架)を遠ざけてください、どうしてこのような試練をお与えになるのですか、自分には無理ですというような悩み(葛藤)の中にいた。しかし、祈りの最後には、全てを神にゆだねますと祈ったのである。(無となり、神の器となり切った)そして神の愛が発動した。愛は勝利をおさめ、万民に救いの手が広がったのである。愛したのは神である。

神の愛によって、イエスは死ぬことなく、復活することができたのである。
イエスは神と一体となり愛を感じたのである。イエスは救われた。救われた者だから、救うことができるのである。

ヨハネの第一の手紙 4章7節~8節
「愛する者たちよ、わたしたちは互いに愛し合おうではないか。愛は神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。愛さないものは神を知らない。神は愛である。」

 感謝の日々(愛が幸せをもたらす)

愛したのは神である。(自分ではない)それがわかれば感謝の気持ちが湧いてくる。(復活できる)
幸せをもたらしているのは神なのである。

多くの信者たちが最後に残す言葉が、「唯々、感謝である」と言う。
浄土教でも、「報恩感謝」ということを教える。神の愛(仏の慈悲)によって生かされたのだから、感謝しかない。

神様が愛されるのである。そのことを信じよう。

神が愛するのであるから、このことは障害のある子どもを持つ親にとっても救いである。親亡き後、希望をもって子どもを託すことができる。神が与え、神が愛し、神が幸せをもたらすであろう。この子に幸せをもたらす(それを保証する者)のは、自分ではない、神である。自分は親としてのベストを尽くせばいい。

神様が使わして下さった人に感謝し、「仏縁」に感謝するようになる。

私としては、愛に生きることができたならそれで満足である。
結果は、神がもたらすであろう。

これらの信仰を単に言葉で表すだけなら、数枚の紙きれで説明することができるかもしれないし、「愛」という一文字で表すこともできる。でも、それが本当にそうだと実感するためには実際に歩んでみなくてはわからない。だから、人生が必要なのだ。

神が神という言葉だけではわからないのと同様、愛も愛という言葉だけではわからないのである。
自分で歩み、体験し、実感しなければわからないのである。

愛がもたらすものは、幸福であり、平和であり、美と調和の世界である。
愛と一つになれば、私たちは永遠にそのような世界に住むことができるようになるのである。
「極楽浄土」と言う人もあるし、「神の国」「天国」と呼ぶ人もいる。
愛(慈悲)がもたらす国のことを言っているのである。

 一なる愛の世界へ

悲しみを通過しなければ喜びには至らない。相対の世界・二の世界の宿命と言っていい。
だが、悲しみは悲しみのままではない。これを覆し逆転させる、悲しみさえも喜びに変えるのが「愛」なのである。愛はすべてを包み、全てを癒し、全てに幸福をもたらすのである。

柳宗悦は、神は「一」なる存在であり、全き愛のお方であると言っている。

神は「一」なるお方である。始まりは一である。
一なる愛(未分の愛)から始まったので、相対に分かれても全てを包み、一なる愛の世界(幸福)に帰るのである。神は愛である、だから結末は幸福である。原因が結果を生む。一に始まり一に帰る。始まりは愛しかないし、最後は幸福しかない。

たとえ相対(二)の世界で、善と悪に分かれたとしても、善も救わなければならないし、悪も救わなければならない。それが一なる愛の目指すところである。愛に包み込まれたとき、行き着くところは一つ(幸福)なのである。

イエスは『山上の垂訓』において、
悲しんでいる人たちは、慰められる。
義に飢えかわいている人たちは、満たされる。
憐れみ深い人たちは、憐れみを受ける。

迫害されてきた人たちは、幸いである、天国は彼らのものである。
というように逆の結果がもたらされると言う。

決して、悲しんでいる人はより不幸になるとか、いくら義を求めても世の中は不義のままだとか、迫害される人々はそのまま地獄に落ちるとかは言わない。それは何故か? 神は愛であるからである。
行き過ぎたこと(間違ったこと)に対しては、必ず修正される。行先は一つ、愛の世界「天国」へと向かうということである。

浄土真宗が教える『悪人正機説』も頷けることである。仏の慈悲(神の愛)による救いからもれる人はいない。「南無阿弥陀仏」と称えて仏の慈悲に帰命すれば、みな浄土に入ることができると言うのは素晴らしい教えだ。(最短コースを教えている)

悲しんでいる人は癒される。悪人もいつかは悔い改めて神(仏)のもとに帰る。
全てを包み込み、浄土(天国)へ帰すのが、愛であり慈悲なのです。

神は常に私たちの心に働きかけている。

愛が生み出す世界は「天国」しかない。
行き着く一なる世界は、永遠なる愛の世界、喜びの世界なのである。

韓国語では神様のことをハナニム(하나님)と呼ぶ。ハナ(하나)とは「一」、そして愛である。
一から始まり一に帰る。始まりの一は愛(神)、帰り着く一は全てを愛で包み込み一つとなるという意味を持つ「一」である。「天国」とも言う。

ハナニム(하나님)が何を意味するか。神には愛しかなく、全き愛のお方であると言わんとしているのである。

相対の世界(二の世界)で起こるすべてのことも、やがては愛によって一つとなり、喜びの世界へと入るという意味である。振り返ってみれば、喜びを知るために二の世界に入ったと言えるかもしれない。

私は二元論者ではない。
「一」なる神がもたらすものは、「一」なる結果しかない。それが天国である。

だから、神が愛である限り、天国は必ず来る。

ヨハネの黙示録 第21章6節~7節
「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終わりである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」

このストーリーは、初めと終わりが確定しているのである。だから迷う必要はない。
神とともに精一杯愛すればいいのである。

シンプルに語ろうと思ったが、長くなってしまった。以上が、私の信仰に関する説明である。
私は、宗教宗派は問わない。言葉や表現方法、歴史や文化は違っても、人として必ず共通点があると思っている。皆様が「愛」に対する理解を深め、少しでも幸福に近づいて行ってくれることを願っている。

2025.11.1