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信仰の基本的なこと
【前書き】 今日は、信仰について書こうと思います。 信仰と価値観、思想などは「自由」に属することなので、人に押し付けることは出来ません。 それを十分承知したうえで、何かの参考になればいいと思い。気づくための手助けならできるかもしれないと言うことで、次のような文章を書くことにしました。 決めつけではないので、違うと思う人は読む必要はありません。道はいろいろあるでしょう。 今回は「信仰の基本的なこと」ということで、私の大切にしていることを書いてゆきましょう。
「神は愛である」ということ。 愛こそが人に幸せをもたらすのであるから、自分の中心におくべき神が「愛」であるということが、何よりの福音なのである。私の中で生きて働かれる神が愛なのである。 ヨハネの第一の手紙 4章16節 神は外からも内からも働かれる。 故 遠藤周作は、「神はその働きによって知ることができる」と言っていた。 神は愛である。だから、神は感じ取るべきものであり、心の奥から湧き上がるものなのである。 イエスは神を「父なる神」と呼んだ。神は人に命を与えた親(創造主)である。 わからないことがあれば、祈りながら問えばいい。神はインスピレーションを通して教えてくださるだろう。神が「言葉」を与えて下さる。
私たち人間は、神の形であり、神を宿すための器なのである。 そして、私たちを通して神の愛は成就される。 神は人に宿り、人を通じて愛を体験したかったのだ。 コリント人への第一の手紙 3章16節 神(愛)を宿す器となる。神を宿し、愛に生きる。 邪な自分の欲望が渦巻いていたのでは、神は内に宿って働くことができない。 神の愛に同伴するためには、自己の欲望を制御(コントロール)できねばならない。 古くからの日本語の表現の中に、悔い改めることを「心を入れ替える」、「心を入れ替えて真人間になる」と言ったような表現をすることがある。人は所詮入れ物(器)でしかないのだ。心に何を宿すかでその人がどういう存在になるかが決まる。自己中心な煩悩や邪念を抱けば鬼にも悪魔にもなるし、神の愛や仏の慈悲を宿せばその如くの人間になる。人間は本性において、後者が真の人間の姿なのだと知っているから、真人間になりなさいと言うのである。 多くの人は自分を中心とした邪心に取りつかれているので、まずは「無」(空っぽ)の状態に戻すことが求められる。(仏教の多くの修業がそのようになっている) 自分を否定しなければ、自分の内に働く神(愛)を認めることができない。そこに難しさがある。 罪を犯し、神から離れてしまった人間が、再び神を取り戻し、愛に生きるということは容易なことではないのである。神を感じとることすら難しくなっている。 無なる境地を求めた「般若心経」、 キリスト教は愛を教えている。 神の愛とはいかなる愛なのか? マタイによる福音書 5章44節~48節 愛とは何か、聖書にも書かれていて、比喩やたとえ話しなどで伝えられているが、文字だけではわからない。 愛する者は愛を知り、神を知っている。(その愛がどこから来たのか知るようになる)
同時に、愛を知るためには、悲しみについて理解する必要がある。 悲しみには二種類ある。自分に根差す自己中心的な我欲が満たされないことによる悲しみと、愛ゆえに生じる悲しみです。自分自身のことに関しては、これは簡単で自分を捨てればいい。あきらめればいいのです。愛には自分という思いなどないのですから、「無」になればいい。 しかし、愛するが故の悲しみは、人のための悲しみであり、相手に不幸が続く限り逃れることのできない悲しみなのである。(子どもに障害が見つかった時の親の心のように) 「悲」という言葉は奥深いものである。柳宗悦の教えが役に立つ。 「悲」とは含みの多い言葉である。 悲しみは「慈(いつく)しみ」でありまた「愛(いとお)しみ」である。悲しみを持たぬ慈愛があろうか。それゆえ慈悲ともいう。仰いで大悲ともいう。古語では「愛し」を「かなし」と読み。更に「美し」という文字でさえ「かなし」と読んだ。信仰は慈しみに充ちる観音菩薩を「悲母観音」と呼ぶではないか。 基督教でもその信仰の深まった中世紀においては、マリアを呼ぶのに”Lady of Sorrows”の言葉を用いた「悲しみの女」の義である。「アベ・マリア」とは悲しみの彼女を讃える叫びである。慈悲に人間は飢える。これなくして活くることは出来ぬ。 (柳宗悦 著「南無阿弥陀仏」より) 自分のために悲しんでいるのではない。人のために、愛ゆえに悲しんでいる。悲しみを共にするその思いには、温かみがあり、優しさがあり、癒しを伴っている。だから「慈悲」であると言うのである。 愛(慈悲)以外に人を救いえるものはない。 愛は、他者の為に寄り添い、悲しみをともにします。(ある意味、本人以上に悲しみます) イエスやマリアの姿を見てわかるように、神もまた愛するがゆえに深い悲しみを持たれている、「悲しみの神」なのである。その悲しみは誰よりも深い。 人は愛を取り戻すことによって、神を慰め、神の悲しみを癒さなくてはならない存在なのです。 悲しみは、寄り添う悲しみ(慈悲)によって癒されます。 悲しみごと包み込むように愛すればいい。 神の愛がどのようなものなのか、体験しながら知らなくてはならない。
愛するのは神である。 神の愛(真の愛)が、幸福への扉を開く。 愛は神からのもの。神が与え、神が愛する。 自分が愛していると思ってはいけない。(自分以上に、神が愛しているのだ) 本当の愛は、自分を越えたところに見つかる。だから神は時に限界を超えるような試練を与える。 自分のできる範囲のことなら、愚かにも「自分がした」と思ってしまうからである。(神に気づかない)信仰が必要ない。追い込まれて限界に立った時に、初めて気づくのである。そして、祈りながら歩むようになる。 能力の高い、恵まれた人が後になり、不幸だと思っていた人(悲しんでいた人)のほうが先に、寄り添う神の愛に気づくこともある。愛を取り戻し、救われる順序が逆になることもあるということです。だから、一見不幸な境遇にあるように見えるのだけれども、神の愛に包まれていてニコニコしている人もいるのです。 神様は内側を見ている。「いいと思っていたことが悪くなり、悪いと思っていたことが良くなる。」ということは宗教の世界ではよくあることなのです。 人生に困難はつきものである。自分では乗り越えられないと思うこともあるだろう。確かに自分だけでは無理である。しかし、愛するのは(自分ではなく)私の内に宿る神なのである。 よく「神は越えられない試練は与えない」と言われるが、それは神ご自身が内に宿って愛されるからだ。神には愛せないものはない。神が愛するのだから、越えられないものはない。 観音経(法華経第24章 観世音菩薩普門品)にでてくる観音力とは、神の愛から生じているのである。一心に「南無観世音菩薩」と念じる、観音さまと一つとなり、観音力(慈悲の心)で乗り越えてゆくという話である。 イエスは十字架を前にした時、この杯(十字架)を遠ざけてください、どうしてこのような試練をお与えになるのですか、自分には無理ですというような悩み(葛藤)の中にいた。しかし、祈りの最後には、全てを神にゆだねますと祈ったのである。(無となり、神の器となり切った)そして神の愛が発動した。愛は勝利をおさめ、万民に救いの手が広がったのである。愛したのは神である。 神の愛によって、イエスは死ぬことなく、復活することができたのである。 ヨハネの第一の手紙 4章7節~8節
愛したのは神である。(自分ではない)それがわかれば感謝の気持ちが湧いてくる。(復活できる) 多くの信者たちが最後に残す言葉が、「唯々、感謝である」と言う。 神様が愛されるのである。そのことを信じよう。 神が愛するのであるから、このことは障害のある子どもを持つ親にとっても救いである。親亡き後、希望をもって子どもを託すことができる。神が与え、神が愛し、神が幸せをもたらすであろう。 神様が使わして下さった人に感謝し、「仏縁」に感謝するようになる。 私としては、愛に生きることができたならそれで満足である。 これらの信仰を単に言葉で表すだけなら、数枚の紙きれで説明することができるかもしれないし、「愛」という一文字で表すこともできる。でも、それが本当にそうだと実感するためには実際に歩んでみなくてはわからない。だから、人生が必要なのだ。 神が神という言葉だけではわからないのと同様、愛も愛という言葉だけではわからないのである。 愛がもたらすものは、幸福であり、平和であり、美と調和の世界である。
悲しみを通過しなければ喜びには至らない。相対の世界・二の世界の宿命と言っていい。 柳宗悦は、神は「一」なる存在であり、全き愛のお方であると言っている。 神は「一」なるお方である。始まりは一である。 たとえ相対(二)の世界で、善と悪に分かれたとしても、善も救わなければならないし、悪も救わなければならない。それが一なる愛の目指すところである。愛に包み込まれたとき、行き着くところは一つ(幸福)なのである。 イエスは『山上の垂訓』において、 決して、悲しんでいる人はより不幸になるとか、いくら義を求めても世の中は不義のままだとか、迫害される人々はそのまま地獄に落ちるとかは言わない。 浄土真宗が教える『悪人正機説』も頷けることである。仏の慈悲(神の愛)による救いからもれる人はいない。「南無阿弥陀仏」と称えて仏の慈悲に帰命すれば、みな浄土に入ることができると言うのは素晴らしい教えだ。(最短コースを教えている) 悲しんでいる人は癒される。悪人もいつかは悔い改めて神(仏)のもとに帰る。 神は常に私たちの心に働きかけている。
韓国語では神様のことをハナニム(하나님)と呼ぶ。ハナ(하나)とは「一」、そして愛である。 ハナニム(하나님)が何を意味するか。神には愛しかなく、全き愛のお方であると言わんとしているのである。 相対の世界(二の世界)で起こるすべてのことも、やがては愛によって一つとなり、喜びの世界へと入るという意味である。振り返ってみれば、喜びを知るために二の世界に入ったと言えるかもしれない。 私は二元論者ではない。 だから、神が愛である限り、天国は必ず来る。 ヨハネの黙示録 第21章6節~7節 このストーリーは、初めと終わりが確定しているのである。だから迷う必要はない。
シンプルに語ろうと思ったが、長くなってしまった。以上が、私の信仰に関する説明である。 2025.11.1
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