愛について

「愛とは」のAI回答

愛とは、相手を大切に思う気持ちであり、様々な形や対象を持つ感情です。恋とは異なり、愛は長い時間をかけて育まれ、見返りを求めない双方向の感情とされています。

愛の定義
愛は、相手の存在そのものを大切に思う気持ちであり、親子、兄弟、友人、恋人など、その対象は多岐にわたります。辞書的な意味では、人をいとおしく思う気持ちや、人を大切に思う気持ちとされています。

愛と恋の違い
愛と恋はしばしば混同されますが、明確な違いがあります。
恋: 自分の興味関心に基づき、短期間で成立する感情です。ファン心理のように単独でも成立し得ます。
愛: 相手のため、二人のためのものであり、長い時間をかけて育む感情です。見返りを求めず、双方向の感情の動きによって成り立ちます。

広辞苑では、次のような語義をあげています。

  • 親兄弟のいつくしみあう心。ひろく、人間や生物への思いやり。

  • 男女間の愛情。恋愛。

  • 大切にすること。かわいがること。めでること。

  • 〔キリスト教〕 神が、全ての人間をあまねく限りなく いつくしんでいること。アガペー(隣人愛)。

  • 〔仏教〕 渇愛、愛着(あいじゃく)、愛欲。「十二因縁」の説明では第八支に位置づけられ、迷いの根源として否定的に見られる

エロスとアガペーが異なることも歴然としています。

エロス(肉体的な愛)
エロスは肉体的つながりを重視するタイプの愛です。恋愛でもよくあることです。肉体的つながりばかりを求めて恋人へ夢中になると理性を失い、依存することにもなるので注意が必要です。

アガペー(無償の愛)
アガペーは相手に見返りを求めない無償の愛のことです。肉体的なつながりにとらわれない精神的な愛で、その背景には相手への深い共感や受容も存在します。日頃自覚できない感情かもしれませんが、最も尊い愛だと感じます。

聖書における愛の記述

コリント信徒への手紙 1 13章4節~7節
「愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。 愛はいつまでも絶えることがない。」

マタイによる福音書 5章44節~48節
「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。 あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

ヨハネの第一の手紙 47節~19
「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。 愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」


一般的に、人々が有している愛と神の愛とは次元が異なるのではないかと思うこともあります。
愛の本質は同じなのですが、人の愛はまだ神の愛に追いついていない感じがします。

信仰に基づいて、「神の愛」を考えてみると、より深い愛の意味を理解できるかもしれません。
以下、愛についての私見を述べたいと思います。話しが広範囲に及びますが、よろしくご判断ください。

 愛とは

愛には自分がない(私心がない)。
愛とは、相手を幸せにするために発するすべての思いのことである。
特に、「神の愛」となると、一人の幸せだけでなく「みんなの幸せ」を願う。どのような人であっても、一人も欠けることなく、万民を幸せにする愛。宇宙すべてを愛する愛。そのような全き愛、真の愛を「神の愛」と言う。

神はその愛をもって人を創造し、宇宙を創造された。生命は愛から誕生したのである。

愛は、人(相手)を幸せにするために働く思いであり、情であるから、常に相手に寄り添うように働く。相手が悲しんでいる時は、そばにあってともに悲しみ、相手が喜んでいる時は抱き合うようにともに喜ぶ。だから、その時働く悲しみや喜びの情もまた愛なのである。人が過ちを犯したときに、相手を怒る(叱る)。その怒りもまた愛なのである。人を励ますのも愛。もちろん常に優しいのが愛なのだけれど、時には怒る、これもまた愛なのである。相手が離れていて淋しくなる。その淋しさや、心配する気持ちもまた愛なのである。愛はいろんな形、いろんな思いとして現れてくる。その愛を噛みしめ、味わってゆくのが人生なのである。

お不動さんや仁王さんのあの怖い顔も愛の表れであるし、マリア様や悲母観音の悲しげな顔も愛なのである。私たちはそれを貴く思う。

神は人の内に宿る。普段は自分(人間)の思いに覆われていて気付きにくいが、本当に愛が必要な時、心の奥底にあって力強く働いて下さる。また、意外とユーモアにあふれ、お茶目ないたずら心があるのも神の愛なのである。好奇心も旺盛だ。神は人とともに楽しもうとされている。だから神の働きに対して、リアクションしてあげると神は喜ばれる。(基本、人と同じような感情を持っておられるのである。)

心の奥にある愛は、単なる感情(脳の機能や現象)と言うより「生きた存在」であり、自分の思いとは別に、(独立した)意志をもって働いている。私を突き動かす。だから、その愛のことを「神」と呼ぶにふさわしいのである。

私たちは気づいていないだけで、愛(神)はいつも私の心によりそって下さっているのです。

 人を幸せにしたいという願い

神を言葉で表現するのは難しいのと同様、愛が何であるかを言葉で表現することは難しいです。言葉の次元をはるかに超えているからです。人を幸せにするために働く衝動であり、すべての思いなのです。それはあらゆるものに反映されてゆきます。愛はなんにでも形を変えて現れてきます。すべてが神の愛だともいうことができます。
愛を説明しようと思えば、それは同時に神の説明になってしまいます。

人を幸せにしたい。人を幸せにすることによって自分もともに喜びたい。それが、神の動機であったと思います。だからそれが愛の特質となっています。
相手の幸せが先行します。私心はありません。相手が幸せになるのを見て、自分も幸せを感じられるのです。人の幸せを願って、ご自身のすべてを投入されました。愛そうと決意されたのです。それがビッグ・バンではないかと思います。

愛は「人を幸せにしたい」という願いから生じています。神は本質が愛なので、愛さずにはいられないのです。愛しているから「幸せ」を願っているとも言うことができます。愛には「幸福」という目的があったのです。相手を幸せにすることによって、自分もともに幸せになりたいという目的です。(優先するのは相手の幸せです)神にとってはみんなの幸せです。等しく愛されているからです。

ある父親は、子供が生まれた瞬間、その子を見て、この子を絶対に幸せにしたいと思い。愛情が溢れるように湧いてきたという。そして、子供から生きる力を授かった。これも同じことです。

人の役に立つことによって、生きがいを感じることができる。
お客さんの笑顔を見ると、自分も笑顔になれる。
これも同じ道理です。与えたものを受けるようになるのです。

マタイによる福音書 7章:12節
「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。」とイエスも言っている。

愛は常に利他的です。
相手の幸せを先行させなければ(利他的でなければ)、与えることから始めなければ、世界はうまく回転しないということを知っておられるのです。理想世界というのは愛による循環です。愛による調和です。もちろん神ご自身にも欲望はあります。しかし、あえてそれを出さず「無」となり、愛することのみに全力を注がれる(徹する)のです。愛は永遠を望みますから、循環しなければ永遠となりません。

「人を幸せにすることによってのみ、自分も幸せになれる。」という原則を、神ご自身がよく知っておられるのです。
だから幸せを願い、愛を与え続けるのです。

一つ言えることは、私の幸せを願っているのは、私以上に神なのだということ。これが、神が愛であることの所以です。そのため、信仰をもつと自分を大切にします。
でも、だからと言って自己中心になるわけではありません。自分も愛になりたいと思うのです。

愛が一番大切だからです。(神と同じように生きたいと思うのです)

 キリスト教と仏教の愛に対する解釈の違い

キリスト教では、神の本質を「愛」であると表現する。
しかし仏教では、愛という言葉をあまり使いたくない。苦しい時、悲しい時に寄り添ってくれる「慈悲」こそが、仏の最も素晴らしい性質であると見るのです。悲しみと苦しみの多い今の世の中では、もっともなことだと思います。

仏教では、愛と言えば男女の愛欲・情欲を連想し、我執(執着)により人を誤った方向に向ける、道を間違える(踏み外す)原因となる衝動だと受け止めます。しかし、それは堕落して性欲をコントロールできなくなっているためです。
本来、愛を高めるためにあった聖なるものが、愛を引きずり下ろす汚れた情欲になってしまった。
だから、堕落した情欲と清き愛は区別しなくてはなりません。

美言を吐いて甘く誘惑し、一見優しげに見えても、自分の情欲を満たし貪るばかりで、人を不幸に陥れるとするならば、それは本当の愛ではなく偽物なのだということを知っておかなくてはなりません。「相手を幸せにする」というのが愛の大原則なのです。相手を幸せにするためには、性欲も抑え込めるようでなければなりません。(振り回されているようではいけません)性とは、しかるべき時に、しかるべき相手と愛を高め合うためにあるのです。
抑えることができてこそ、生かすことができるのです。
だから、修行僧たちは厳しい禁欲生活に耐えているのだと思います。そして、いいことばかりではなく、悲しみも苦しみもともにするということが大切なのです。

本当は、愛は清く、人を幸せにするためのものなのです。
仏教で重視されている「慈悲」も、愛が悲しみに触れたときに発する思いなのです。悲しみによりそい慰める。癒しであり、慈しみの思いなのである。愛から生じた思いなのです。だから、キリスト教も仏教も、最終的には神の愛に行き着く。そこに至って、天国や浄土に入るのである。

 深い神の愛

神の愛は深い。神はご自身が造ったもので愛せないものはない。悪とか罪は人間が過ちによって生み出されたものである。しかし、神は悪人であっても愛される。どのような人であっても愛される。もともと人はすべて「神の子」なのである。愛さないわけがない(それが親の心情である)。
罪を憎み、罪人となったことをともに悲しんで悪と闘う。人を憎んでいるわけではない。改心して神のもとに帰るまで、償いの道を準備されている。神は最後までともに歩み、一人残らず救う覚悟ができているのだ。だから神はイエスを通して「敵を愛し、迫害する者の為に祈れ」と教えた。神はずっと、そのようにして来られたからである。自分がやりもしないようなことを、子供(人)に押し付けたりはしない。

イエスも「天の父が完全であられるように、あなたがたも(愛において)完全なものとなりなさい。」と言われるのです。

どんな犯罪人であっても、いつか悔い改め、罪を償って神のもとに帰らねばならないのです。
多く許されたものは、多く愛するようになるでしょう。すべては愛へと終結します。

敵をも愛する深い愛がなければ、戦争を終わらせることは出来ません。

人が愛せないようなものでも、神は愛される。神に愛せないものはない。すべては神の愛と言えるようになる。神は全き愛のお方である。我々人間は自分の周りだけ、生きている短い期間と、ほんの少し先の未来までしか見ていない。神は永遠を基準として考えておられる。また、上辺だけの幸福ではなく、本当の幸福へと導こうとされる。真の愛である。

仏教でも、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば誰しも極楽浄土へと往けるという浄土教の教えがある。
仏さまも、慈悲(慈愛)の心によって一人残らず浄土へと摂取しようとされているのだ。

神は、ありとあらゆる人の個々の事情を考慮に入れた上で、最善の組み合わせで計画を立てられる。私たちは、その神のはかりごと(ご計画・プラン)に基づいて出会っている。(偶然ではない)
我々は目先のことしか見えていないが、神は遥か彼方のことまで見通したうえで計画されているのです。

 神の特性

簡単に神の特性を書いてみよう。
神は一つでありながら全てであり、時空を超えている。人間的な二次元・三次元の考え方ではついてゆけなくなる。神は次元というものを遥かに超えている。(そのような言葉すらない)
人間の認識レベルを超えている。目に見えない、耳に聞こえない、だから存在しない、信じないというような、子供だましの安直な理論は通じない。

神は言葉を越えた言葉を持っている。言葉になる前の言葉、知性や意思を秘めておられる。
目に見えないけれども、すべてに存在しえる。

何万人と人がいようとも、同時にその人の内にあって働くことができるし、過去と未来をすべて見通したうえで、準備し出会わしめ、働くことができる。人の心の隅々まで(悲しみや痛みも)理解しておられる。私以上に私のことを考えておられる。

広大な宇宙の運行から、微細な細胞の内側にあるDNAのデザインに至るまで、極小から極大まですべてが管理されている。生態系のバランスや生物の仕組みなど、実に精巧に緻密に計算されてできている。この世界が偶然に自然選択や突然変異の結果できたというのは、宝くじを100回連続で1等賞を当てることよりもありえないことだと思う。あきらかに意志が働いている。そこには計り知れない叡智と愛が働いているのです。

鈴木大拙先生は、仏教の究極にあるものは「大智」と「大悲」であると言われます。

もし偶然にできたものだとすると、それがまた偶然になくなったとしても何の不思議もない。悲しむべきことでもない。人が死のうと地球が滅びようと元に戻っただけである。悲しみと言う感情すら消えてなくなるだろう。しかし、我々はそれを創ったものが「愛」であると知っているから、決して失ってはいけないと思うのである。永遠に残さねばならないと思うのである。

神は森羅万象、宇宙、人の中、あらゆるところに愛として働きかけておられる。
神が「愛」であるからそのような働きができるのである。
愛であるから、人に感動を与える、この美しい世界(光景)が眼前に広がっているのである。

なにも無いところから偶然に宇宙や人間が誕生したと考えるより、「愛」があって宇宙が誕生し、私がいるんだと考えた方が、自分を大切にするし、未来に希望が持てるのではないでしょうか。

 フィナーレ

神が創造したものは、愛によって作られたものなので、すべてが「美」である。天国には美醜の二はない。人もいろんな個性はあるけれども、全ての人は美しいのである。
浄土教に、「無有好醜の願」というものがあるが、その如く成就されているのが神の世界なのである。
愛によって生み出されたものは美しかない。美しく、調和がとれていて、平和である。

神は愛をもってすべてのものを創られた。だから、すべてのものは「愛」なのである。
愛が形になったものだから、その本質は「愛」なのです。

神は、すべてのものを通して愛を顕されます。あらゆるものは「愛」を表現するために存在しているのです。人々を幸せにするために存在しているのです。存在は、ただ存在しているのではなく、愛を顕すために存在しています。本質は愛です。だから神は愛だというのです。そして、人もまた愛となるべき存在なのです。

神にゆだねるということは、愛にゆだねるということ、愛に生きるということ。それが幸せに至る道なのです。

神を知り、神を宿し、愛となることが大切です。愛は人に喜びと幸福をもたらします。
すべては「喜び」の為です。神の喜び、みんなの幸せの為です。

神は愛です。愛が目的とすることは「幸福」です。みんなの幸せを望まれるのです。
これで、なぜ天国ができるかがわかりますね。神が愛だからです。


以上、「愛とは何か」について説明してきました。
私は『大渡海』(舟を編む)のファンなのですが、この説明ではあまりにも長すぎで、辞書の語釈には使えませんね。でも愛とはいろんな形で、広範囲に影響を与えるものなので、このような説明になってしまいました。
人によっては、また違う感じ方をしていて、もっと説明が長くなるかもしれません。
それは、皆さんにお任せして、ひとまず筆を置くことにします。

2025.12.20

愛とは何かを語る中で、神様を紹介できればと思いました。
いきなり「神とは、」と持ち掛けても、抵抗がある方が多いだろうと思いまして・・

愛を説明していたら、愛が世界を創ったという話にまでなってしまいました。

ここに書いてあるのはあくまでも私個人の見解です。
信仰をもたない方におかれましては、お聞き苦しいところもあったかと思います。

押し付ける気持ちは毛頭ございません。
「信教の自由」と言うことでご容赦いただければと思います。