神が宿るということ

神は高く、離れたところから、人間を見下ろしているのではない。神は人の中に宿り、人と共におられる。だから、私たちは人を信じることができるのである。

その神は「愛」であり、人の中にも愛として宿られる。だから、人々は神の愛によってつながり、一つとなりえるのである。

遠くにあって見ているだけなら、神と人とは別の(離れた)存在であり、自分を信じることも、人を信じることもできなくなる。愛になることもできない。

神が人に宿るということは素晴らしいことである。
「内に宿る」存在であるがゆえに、全ての人が愛を有し、一つになりえるのである。絶妙な神のアイデアだと思う。
神もまた、人を通して(実体をもって)愛を体験できる。それを喜びとされたのである。
内に存在するがゆえに、神と人とは愛において一つになりえるのである。
そして、ともに喜びの世界「天国」に入ることができる。

神を宿す、愛を宿すということが、万民の共通項となる。
だから、全ての人と通じ合い、お互いを信じることができるし、愛で一つとなることができる。なぜなら、みんな神(愛)を宿しており、「互いに愛し合おう」としているからである。

神の描く世界は、そういう世界である。

〇 神の形

聖書には「人は神の形」であると記されている。
人は神の愛を形にしたものなのである。形にして、神ご自身も人を通じて愛を実体験し、愛を完成させ、ともに喜びたかったのである。

神がどんなに万能で愛があるとしても、お一人で、形もないのに、愛を体験し喜びに浸ることなど出来ないのである。形にして、そこに宿り、パートナーを必要としたのである。だから、アダムとエバを造られた。

ナイス・アイデアと言うよりも、神様がその愛を実体化し、喜びの世界を実現(実体験)しようとするなら、人と共に愛を完成させる、この道(このやり方)しかなかったのである。

〇 自然の中

神は自然界のあらゆるものに宿り、ご自身の愛を表現することができる。
(それは作品として、神の愛の一部を表現している)
人の目から見て、自然が美しく見え、感動するのは、その背後に神の愛があるからである。

森羅万象、すべてが美しい。生態系の循環も見事であり、何一つ無駄なものがない。

ヒマラヤや極限の世界が神々しく、神秘的であるということはよく言われるが、そうでなくても、ごく身近に咲く草花が美しく感じたり、食べ物がおいしく感じられたりするのは、そう思えるように、神が愛をもって作って下さっているからである。これも小さな神体験(愛の体験)であると言っていい。

「心の清い人たちは幸いである、彼らは神を見るであろう」、聖書に書かれているその通りである。

自然は美しい。間違いなくそこには神が宿っている。愛を表現している。
「天国」の舞台は整っているのだ。

〇 霊と言葉

言葉も、神の霊が言葉になってゆくということがある。
そんな時は、私が話していながら私であるような気がしない。神のご意志、神の愛が語らせているのだ。だから、決して自分が語ったと思わないほうがいい。与えられた言葉であるにも関わらず、自分が語った、自分の言葉だと思うと傲慢になってしまう。

お坊さんや牧師さんなら気づかれているかもしれない。
お経をあげたり、礼拝で説教をしていて、ある「域」に達すると、自分ではない何かに「語らされている」というような感覚を覚えることがある。お経の響きも、仏様の声がこだましているように聞こえるのだ。
人間が考え、準備した原稿がなくても、次々に言葉が湧いてくる。何か(誰か)が語っている。その語られている言葉は、神様の霊が言葉になったものである。上げているお経も、仏様の声が響いているのである。

伝えたいと思う人の気持ちと神の愛が一致すると、言葉が湧いてくるのです。神はお見通しである、その人(相手)に必要な言葉を、立てられた人を通して語られる。(神の霊が宿っている)

福祉のケアにおいても、相手を思いやる気持ちがあれば、意図したわけでもないのに「優しい言葉かけ」ができたりすることがある。そんな時は言った自分まで嬉しくなる。

〇 余白

文章を書く作家さんにおいても同じである。
本当に筆が乗って、良い文章が書けるときは、我ならぬ我に書かされているようで、一気に書き上がってしまう。考え抜いて、工夫を凝らして(創作して)書いた文章よりも、一瞬の閃きによって書いた文章のほうが、本質をついていて、人の考えの及ばない劇的な名文になる。

クリスチャン作家である遠藤周作はよく言っていた。

作家以外に、「もう一つの声」がある、と。
小説を書くとは、登場人物を動かすことではない。書くとは、登場人物が動き始める場を準備することである。

作者にできることは、文学空間にある「余白」を生み出すことだけなのです。

作中人物が動き出すとは、その人物が作家の創意とは別な主体性をもつということです。文学とは、作家の思いの彼方で起こる出来事なのだ、とまで言う。遠藤周作の作品には、彼の信仰が反映しているのです。(神が働いている)
代表作『深い河』はそのようにして書かれた。

だいたい名作と言われるようなものは時間をかけて書いたものは少ない。一瞬にして導かれるようにして書いたものである。何かによって、書かされるようにして書いているのである。筆が勝手に動いてゆく、筆が進むという。だから作家は、そのような境地を求めて、自己を追い込み思索してゆくのである。(まるで宗教の修業のようだ)

エックハルトは、「自分の願いや意図を鎮め、魂に余白を生み、神がはたらく場所を作らねばならない。」と語る。

芸術においては絵画もまたそうである。
自分でどれだけ考えて、技法を学び、それを身につけたとしても、いい絵は描けない。ある程度の作品は出来ても、人の感動を呼ぶような、惹きつける作品にはならない。神の愛を感じ、美しいと思ったこと、その「感動」を描き出そうと、無心で筆を動かすところに傑作は生まれるのです。
神人一体。神の心、愛を描き出した作品でなければ、胸を打つ作品にはならない。

「民藝」でも示されたように、神は無垢なる、無心の心に働かれるのである。

知的障害のある子が、無心になって描くアート(Art)作品にとんでもなく美しいものができるのも、何かが宿っているその一例ではないかと思うのです。

〇 メイクドラマ

スポーツの世界においても、ドラマは人間の力を越えたところに起こる。
もちろん、自身を鍛え上げ、技術を向上させ、チームワークに磨きをかけ、全力を尽くし、一生懸命やった上でのことである。ドラマ(劇的なシーン)はその向こう側で起こるのである。

野球でも、延長18回とか、人の力の限界を越えたところにドラマが起こる。チームに神が宿って、神懸かり的なプレーが連発する。

剣道でも、戦いにおいては力あるものが必ず勝つわけではない。考えて作戦を立てて繰り出した技よりも、自分を捨て切って、無心で放った一撃の方が勝つ。それが剣道の最高の技であると言う。剣道は、そういう境地を求めて、修練を重ねてゆく。

神は、「自分」を出すのを嫌うのである。人間的な作為(下心や思惑)には乗らない。だから、自分を越えたところでその姿を顕される。愛は、無私なる場においてこそ、愛になり切れるのである。

〇 心の限界において

人の限界を越えたところ、余白に神は働く。無心の境地、空っぽの心に神の霊が宿る。

自分では許すことができない、愛することができない、心の限界において祈り求める時に、さらに愛する力が湧いてくる。神の愛が働き、全てを包み込んで愛することができるようになる。自分を捨て切って愛する。全き愛となる。恩讐を越えて愛するとこができるようになる。これが神の本当の力だ。(戦争を終わらせるにはこれしかない)

限界という言葉で思い浮かぶのが、「親亡き後」のことである。
障害者の親は、子供より長生きすることができないので、自分が死んだ後のことをどうすることもできない。(私が死んだあと、この子をだれが見るのかと言うことである)それこそ、自分の愛の限界なのである。でもここからが、本当の神の愛の領域であると言ってもいい。神が与えたのだから、神が愛する。神が約束の場所へと導くであろう。

自分を捨て切って、神の愛にかける。神が愛し、神が生かす。

〇 「縁」と「導き」

神はすべての人、全てのものの中に宿り、働きかけている。
神の本質は「愛」であるから、愛を中心として、調整し、コントロールしている。あらゆるところに「神のはかりごと」(神の意図)がある。関係性や出会いが調整されてゆく。偶然などない、導かれてゆくのである。

仏教においては、「縁」と言うことが語られる。仏縁によって結びつき、新しいもの(事)が生み出されていく。

私は神を信じない、無宗教であると言い張る人でさえ、心の中で神を待っている。人の力を超えた劇的なシーンを見てみたいし、信じられないような出会いが訪れることを期待している。

〇 結び

私を通して神の愛を人々にもたらすことができたら、これほどの喜びはない。神と一つになる。神(愛)の通過体となるということは、実に気持ちよく、快感で、すがすがしい気持ちになるものです。

仏さまについても同じである。自分の中に仏を宿し、慈悲の心をもって生きる。慈悲の心をもって人々に接するということは、実に晴れ晴れとした、気持ちのいいことなのです。一時的ではあっても「即身成仏」である。仏さまを自身の内に感じるということは、幸せなことなのである。

心を無にして、「空っぽ」にして、神を宿す、仏を迎え入れる。これが宗教の基本なのでしょう。

人間はやはり愛に触れたときに感動するようにできている。愛に包まれたときに、幸せになれるようにできている。そして自分も愛に生きる。だから、絶対に神(愛)が必要なのです。

我々は長く、神から離れた世界に生き、神を自覚できないまま生活してきた。本当はもっと身近にあり、ともに生きている感覚があり、心で対話する関係であったはずである。少しずつその感覚を取り戻してゆこう。

以上は、信仰における「宿す」という感覚と、その真実についての話でした。

2025.11.24