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神が宿るということ
神は高く、離れたところから、人間を見下ろしているのではない。神は人の中に宿り、人と共におられる。だから、私たちは人を信じることができるのである。 その神は「愛」であり、人の中にも愛として宿られる。だから、人々は神の愛によってつながり、一つとなりえるのである。 遠くにあって見ているだけなら、神と人とは別の(離れた)存在であり、自分を信じることも、人を信じることもできなくなる。愛になることもできない。 神が人に宿るということは素晴らしいことである。 神を宿す、愛を宿すということが、万民の共通項となる。 神の描く世界は、そういう世界である。 〇 神の形 聖書には「人は神の形」であると記されている。 神がどんなに万能で愛があるとしても、お一人で、形もないのに、愛を体験し喜びに浸ることなど出来ないのである。形にして、そこに宿り、パートナーを必要としたのである。だから、アダムとエバを造られた。 ナイス・アイデアと言うよりも、神様がその愛を実体化し、喜びの世界を実現(実体験)しようとするなら、人と共に愛を完成させる、この道(このやり方)しかなかったのである。
〇 自然の中 神は自然界のあらゆるものに宿り、ご自身の愛を表現することができる。 森羅万象、すべてが美しい。生態系の循環も見事であり、何一つ無駄なものがない。 ヒマラヤや極限の世界が神々しく、神秘的であるということはよく言われるが、 「心の清い人たちは幸いである、彼らは神を見るであろう」、聖書に書かれているその通りである。 自然は美しい。間違いなくそこには神が宿っている。愛を表現している。
〇 霊と言葉 言葉も、神の霊が言葉になってゆくということがある。 お坊さんや牧師さんなら気づかれているかもしれない。 伝えたいと思う人の気持ちと神の愛が一致すると、言葉が湧いてくるのです。 福祉のケアにおいても、相手を思いやる気持ちがあれば、意図したわけでもないのに「優しい言葉かけ」ができたりすることがある。そんな時は言った自分まで嬉しくなる。
〇 余白 文章を書く作家さんにおいても同じである。 クリスチャン作家である遠藤周作はよく言っていた。 作家以外に、「もう一つの声」がある、と。
作者にできることは、文学空間にある「余白」を生み出すことだけなのです。 作中人物が動き出すとは、その人物が作家の創意とは別な主体性をもつということです。 だいたい名作と言われるようなものは時間をかけて書いたものは少ない。一瞬にして導かれるようにして書いたものである。何かによって、書かされるようにして書いているのである。筆が勝手に動いてゆく、筆が進むという。だから作家は、そのような境地を求めて、自己を追い込み思索してゆくのである。(まるで宗教の修業のようだ) エックハルトは、「自分の願いや意図を鎮め、魂に余白を生み、神がはたらく場所を作らねばならない。」と語る。 芸術においては絵画もまたそうである。 「民藝」でも示されたように、神は無垢なる、無心の心に働かれるのである。 知的障害のある子が、無心になって描くアート(Art)作品にとんでもなく美しいものができるのも、何かが宿っているその一例ではないかと思うのです。
〇 メイクドラマ スポーツの世界においても、ドラマは人間の力を越えたところに起こる。 野球でも、延長18回とか、人の力の限界を越えたところにドラマが起こる。 剣道でも、戦いにおいては力あるものが必ず勝つわけではない。考えて作戦を立てて繰り出した技よりも、自分を捨て切って、無心で放った一撃の方が勝つ。それが剣道の最高の技であると言う。 神は、「自分」を出すのを嫌うのである。人間的な作為(下心や思惑)には乗らない。だから、自分を越えたところでその姿を顕される。愛は、無私なる場においてこそ、愛になり切れるのである。
〇 心の限界において 人の限界を越えたところ、余白に神は働く。無心の境地、空っぽの心に神の霊が宿る。 自分では許すことができない、愛することができない、心の限界において祈り求める時に、 限界という言葉で思い浮かぶのが、「親亡き後」のことである。 自分を捨て切って、神の愛にかける。神が愛し、神が生かす。 〇 「縁」と「導き」 神はすべての人、全てのものの中に宿り、働きかけている。 仏教においては、「縁」と言うことが語られる。仏縁によって結びつき、新しいもの(事)が生み出されていく。 私は神を信じない、無宗教であると言い張る人でさえ、心の中で神を待っている。人の力を超えた劇的なシーンを見てみたいし、信じられないような出会いが訪れることを期待している。
〇 結び 私を通して神の愛を人々にもたらすことができたら、これほどの喜びはない。 仏さまについても同じである。自分の中に仏を宿し、慈悲の心をもって生きる。 心を無にして、「空っぽ」にして、神を宿す、仏を迎え入れる。これが宗教の基本なのでしょう。 人間はやはり愛に触れたときに感動するようにできている。 我々は長く、神から離れた世界に生き、神を自覚できないまま生活してきた。 以上は、信仰における「宿す」という感覚と、その真実についての話でした。 2025.11.24
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