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宗教の二つの意味

今の世の中には無神論者が多い。
科学が進んだ今、生命の不思議に挑み、遺伝子の解析や組み換え、再生医療、人工知能(AI)の普及にまで進もうとしている。昔で言う神の領域に踏み込もうとしている。そういう時代である。今を生きる人たちは、合理的かつ現実的にものごとをとらえようとする。いまさら神を持ち出してどうなる、迷信だと言って馬鹿にされる、そういう風潮がある。
神を発見したと言ってノーベル賞を取る人はいない。
科学的に証明されたものを真理とみなし、理性を重視し、現実的に生きる。
神よりも「自分」。自分の思いを大切にし、自己実現(自分の夢を実現する)を目指すのが理想的な生き方であると考える人が多い。平たく言えば、自分のやりたいことをやればいいということになる。
はたして、それで世の中うまくいくだろうか?
そのような空気の中で、もし宗教の話題を持ち出したり、神について真剣に話そうとするものなら、怪しい人、変人、気味が悪い、馬鹿げている、現実逃避、などと思われたりする。永遠なるものを感じ、心のどこかでは思っていたとしても、それは表には出しづらいテーマである。
仏教では覚りを開くには「忍辱」(にんにく)が必要であるという。
ただ忍耐する(肉体的に耐える)というのではなく、恥ずかしめに耐えねばならないということらしい。身近な人からも馬鹿にされたり、軽んじられたり、侮辱されたりする。そういうところを通過しなくてはいけない。
その通りであると思う。何と思われようと、求め続けなくてはならない。
仏教の王道である「法華経」に現れる常不軽菩薩(仏陀その人)の姿勢がまさしくそうであった。どんなに軽んじられ、馬鹿にされ、石を投げられても、決して人を軽んじたりしない。人に宿る仏を信じようとする。仏道を貫かれる。
私もそうでありたいと思うのである。(うまく生きるのが下手な私ではあるが・・)

〇 「宗教」の二つの意味
宗教とは、日本語で言うと(漢字の意味からすれば)“もとの教え”である。
すなわち神の教えであり、愛の教えである。人間の考えではない、神から来た教えである。
また、英語ではRe-ligion=“再び、つなぎ合わせる”という意味を持つ。
人間は罪(原罪)を犯したことにより、神から離れ本当の愛を失った状態にある。だから、Re-ligionは切れてしまった神との関係をつなぎ合わせる、元に戻す(回復させる)ことであり、それによって失っていた愛を取り戻すのである。日本語・英語、どちらにおいても、その表記には啓示が含まれているので、深い意味がある。
宗教とは・・・① もとの教え ② 再び、つなぎ合わせる

〇 もとの教え
『宗』・・・おおもと。根本。中心となる考え。神仏の教え。開祖の思想。
宗教の「宗」という字は、【中心】、【最も大切なもの】という意味です。すなわち、「私にとって最も大切な教え」、「私の人生の中心となる教え」を宗教というのです。
「宗」とは、おおもと、根本、中心ということなので、それはすなわち神であり、仏であると言うことになります。決して自分ではありません。あなたは、“もと”(神)ですか?と問われたら、「いいえ」と答えるしかない。だから私の考え(人間の思想)は宗教とは言えない。大元である神の教えにもとづくものが宗教なのです。人の考えが介入しすぎると、自分を正当化し、宗教から逸脱してしまいます。
キリスト教では、神のことを一言で表すと「愛」でありますし、仏教では仏さまは「慈悲」だと言います。だから宗教は、神の教え、仏の教えであり、その内容は「愛の教え」「慈悲の教え」となるはずです。人間は、それを最も大切なものとして生活の中心におき、人生を導くための道標とします。
宗教とは、もと(根本)の教え、神の教えである。
聖書によると、「神は愛である」から、神の教えとは“愛の教え”となる。だから、愛から出発しなければならない。
宗教は神(愛)の教えであるから、愛を知ることが大切である。
哲学は人が考えたもの。宗教は、私の教え(人間の教え)ではない。これが宗教と哲学の違いである。
私をどれだけ掘り探ったとしても、人間を探究しても真の答えは出てこない。私を存在せしめて者、「もと」なる神に問いかけねばならない。しかし、人は容易に神や仏を認識することは出来ないし、愛とか慈悲と言っても人によって感じ方や理解のレベルが異なることもある。自分には自信をもって言い切れるものがない。わからなくなっているのである。
私は”もとの教え”を知りたいのだが、もと(=神)がわからなくなっている。離れた状態にある。
神を知るために、愛を知るために、「神との関係」を取り戻さなくてはならない。(これが宗教に与えられた課題である)単なる知識としてではなく、神との関係を深めてゆくことにより、真理をつかみ、本当の愛を知ることができるのである。
これが、もう一つの宗教の意味するところである、Re-ligion、”再び、つなぎ合わせる“の意である。
離れてしまっていたものを見つけ出し、結びつける。神を感じ取り、その関係を深めてゆく。そうすることにより、“もと”なる神の真理と愛に到達することができる。それによって、「私」の存在の意味と目的も明確になるのである。私の歩むべき道がはっきりとしてくる。
表面的な知識をいくら詰め込んでも何も残らない。最後まで残るのは、深い、根本にあるもの。心に焼き付いているもの。根本にある愛である。その愛に立ってこそ「自分」を生きたものとして認めることができる。

〇 無垢なる幼子の心
宗教はもとの教え。神の教えである。人間は自分で自分を造ったわけではない、創られた存在である。だから元ではない。もとなるものは神である。だから、宗教は人間が考えたものではなく、神の教えなのである。
これに対し、哲学や思想は人間が考えたものである。人によって考え方は異なるので、膨大な種類の思想や考え方が存在し、それぞれの生き方がありえる。多くの頭のいい人が、考えに考えて哲学を構築したが、それが必ずしも正しく、幸せと平和をもたらすとは限らない。
宗教は、知能の高い人だけが身につける(獲得できる)というものではない。無垢なる心で素直に受け止めることの方が大切である。イエスは「天国は幼子のような人が入る場所である」と言う。神の教えを素直に受け入れる人が救われるのである。神の教えは愛の教えなので、心で受け止めることが大切である。無垢なる心で素直に感じ取ることが大切である。親を信じ、親の愛を素直に受け止めて喜ぶ幼子のように。
神との関係を取り戻し、素直に神の教えを受け止めるためには、幼子のような心が必要なのです。猜疑心が強く、物事を否定的にとらえる人は、どんなに頭が良くても神の教えを受け入れることができない。なかなか信仰が根付かない。
法然が開いた浄土教は、凡夫であっても救われる教えである。
阿弥陀様の名前を呼び、救っていただけると素直に信じる庶民の方が馴染みやすく、浄土に入りやすい。
理屈っぽく考えると、仏の心を受け入れ難くなる。

〇 信仰の深まり(神との関係)
信仰とは「神との関係」である。だから、どれだけその関係が深まったかが重要である。
今まで全く関係がなく(切れてしまっていて)、存在すら知らなかった相手と関係を持つ。
そのためにはどうすればいいのか?
① まず、「名前」を呼ぶことから。それだけでも最低限の関係は築ける。
だから称名、仏の名前を呼びなさいと言う。名前を呼んで、「南無」ゆだねます(帰依します)というのだから、それなりに功徳はある。真心を込めて名前を呼べば、距離が縮まってくる。
※人間関係を築くときも、まずは名前を憶えてあげること。そうすれば急に親近感が湧く。友達を作るための第一歩である。
② 次に、ただ名前を呼ぶだけでなく、その方を信じなさいと言う。「信頼関係」である。
より内面的になり、見えないけれど「信じる」という絆を結ぶレベルとなる。内面の真、心(まごころ)が問われるようになる。教えを聞く(話を聞く)ということも大切になります。
③ 最後に、愛となり、慈悲となって、神様と(仏さまと)一つになる。
苦労をともにして、愛において一つになる。ということが完全な絆であり、最も深い関係、一体であると言っていい。
心を一つにし、ともに生きる、ともに愛するという領域である。愛(慈悲)のもとで一体となる。
こうなれば「即身成仏」ということになる。
このように、より深く、本質的なところで一つとなっていくのである。
名前を呼ぶだけでも信仰である。信じて歩むのも信仰である。しかし、我々が目指しているのは、愛において、慈悲の心において一つとなることである。それが最も深い。神さまと心を一つにするということ。それは「愛」になる以外にない。最終的に成仏する、「仏になる」ということは、慈悲の心を自分のものとするということである。
宗教(Re-ligion)とは“再び、つなぎ合わせる”と言うことである。信仰とは関係性であると言うことを忘れてはいけない。関係が深まる中で、神の教えと愛を受け継いでゆくということである。
顔も名前も知らない、生きているかどうかもわからない。そんな人(神)とは関係がないに等しい。
けれども、生きていること(存在)を認め、名前を呼び合う関係になれば、まだ関係としては浅いかもしれないけれど、少なくても迷子になることなくその人(神)のもとに帰ることができる。だから、それも救いであると言えなくはない。「称名」(念仏・名前を呼ぶこと)というのは意味のあることなのだ。
さらに、名前を呼ばれるだけよりは、信じてもらえるほうが嬉しいし、一番いいのは心を一つにして、一緒に愛してくれることが何よりもうれしいはずである。
旧約の時代、モーセは「主よ」と言って神を呼んだが、新約の時代になってイエスは「父なる神」と呼んだ。主従関係よりも父子の関係の方がより親密である。長い歴史を経て神との関係も変わってきている。より身近に神を感じられるような時代になってきてはいる。
信仰は知識だけでは築けない。どんなに万巻の経典を読み、考え抜いたとしても、自分に執着し自分の考えとして所持しているかぎり、神を認めたことにはならず神との関係は築けていないのである。信仰には神との対話「祈りの世界」が必要なのである。人の頭で作り上げた神ではなく、生きた神、本当の神と関係を結び、「愛」となり、一つとならなくてはならない。
※ 「祈りの生活」とは言っても、何か特別な儀式があったり、祭壇を築いたり、祈りの文章があるわけではない。ただ単に、生きた神を意識しながら生活をしているというだけである。普段の生活の中で、“ともにある”ということが大事なのである。時には声に出して語りかけるのもいい。
深い絆を築こうと思うなら、苦労を共にすることである。悲しみを共有することである。
世界を愛し、救おうとするなら、必ず苦しみや悲しみが伴う。その歩みを共にすればいい。
神(愛)に帰ることが信仰の目的なのである。
神に帰るとは愛に帰ることであり、愛によって幸せになることなのです。

〇 イエスの十字架
最近しきりに思うことがある。
イエスは神の子として生まれたのだから、もともと神との親子の深い絆があり、神の心情がわかり、神と同じような愛をもっていたのだ(イエスは特別なのだ、我々とは違うのだ)と考えていたが、どうも違うのではないかと思うようになってきた。
もちろん罪がなく、清らかなイエスの心は神に通じやすかったであろう。
でも、イエスはその生涯において、歴史を通して神が歩んできたのと同じような苦難の道を、神とともに追体験することにより、親子の固い絆(信仰)を築き、深い愛を培ってきたのではないだろうか。そのことの方が大きいように思うのです。何の苦労もなく元々あったものではなく、神とともに苦労をしたことにより、悲しみの道を歩んだがゆえに、深く絆が結ばれ、人類を救う愛が育まれたのではないかと思ったのです。
イエスの3年間の公生涯については聖書に記述があります。しかしナザレで過ごした30年間の私生活については謎となっています。きっとその間にも神のご心情に通じるような体験を多くされたのではないかと思います。(あまりにも可愛そうなので、聖書の記録に残せなかったとの説もあります)
「信仰」とは、神との関係であると申し上げたが、イエスにおいても信仰はその生涯を通して深められていったものなのです。そして、その頂点に立ったのが十字架上でのイエスの姿だったのです。イエスは神が愛であることを身をもって証明されました。苦労の人生が「愛」として実を結んだのである。十字架には仰ぎ見るだけの価値があるのです。
苦労を共にすることで関係が深まり、神と一つになり、愛が育まれて行ったのである。だから、苦労や悲しみを通過してきたことには意味があったのです。神との深い絆が天国への道を開き、恩讐さえも愛する、その大きな愛が人類に救いをもたらしたのです。信仰の頂点、神との関係の頂点を十字架上の神とイエスに見るべきなのです。
誰よりも苦労の道を歩んだ、悲惨な生涯を歩んだ、それは無駄にはならず、より深く大きな愛として輝いるのである。
愛よりも価値のあるものは他にありません。

〇 「同行二人」
神仏を信じ、愛と慈悲(神仏の心)を自身の中に宿す。
私の中にはともに歩む生きた神(仏)が住んでおられる。だから私は一人であって一人でない。「同行二人」なのである。
自分の思い、自分の考えに固執する人は、信仰があるようなふりをしていても、実はそれを利用しているだけなのである。
龍源寺住職の松原泰道さんがおっしゃるには、自分の内には、「日常的自我」と「本質的自己」の二人が住んでいて、二者の間で対話が行われているという。よく知られる四国のお遍路さんの笠には、「同行二人」と書かれているが、それは、お遍路さん(日常の私)とお大師さま(本質の私)が対話の修業をしながら旅をするということらしい。
同行二人、その二人の間に愛が育まれてゆくのです。
私が思うには、人間は元来、二重存在であり、二重の構造(意味合い)を持っているのではないだろうか。神を宿す、仏を宿す、「器」としての自分がある。だからそこには「器」としての自分と、中に宿られている神、あるいは仏の心があるわけです。
多少なりとも霊性が極まっている時、我ならぬ我が自分に働きかけているのを感じることがある。閃きがあったり、愛しいと思う気持ちが湧いてきたりとか。それなのである。(今の世においては、全て自分の思いとしてぐちゃ混ぜにされていることが多いが・・・)私には私の内に働くものがあるのだ。
心に神が宿るから、心は体に対し先導役、教師足りえるのである。
肉体の欲望を否定するわけではないが、引き摺られてしまってはいけないのだ。主導権があるのは神が宿る心の方なのだ。修行する人が「心の声」を聴こうとするのは、そういうことなのである。
神は人を通して相対世界・実体世界において、愛による調和、一体化による喜びと感動を得ようとされているのである。だから私たちは、その内側にある神(仏)と対話しながら、祈りながら生きてゆくのが本来の姿なのである。そうすれば自ずと「同行二人」とならざるを得ない。そして、中に宿るのは神であり仏なのだから、中心(本質)にあるものは、愛であり、慈悲であるということになる。人間とはそういう存在なのだ。
「煩悩」があるのは、人の気持ちを理解するため、愛が愛となるために必要だからである。
欲望があるがゆえに、相手のそれを満たしてあげたいという思いや価値が生じるのです。煩悩も欲望も何もないのであれば、一体何を与えればいいと言うのでしょう。相対世界であるがゆえに、相対的な価値が生じるのです。
でも、そこに価値が生まれる背景には、本質としての愛があるとゆうことなのです。愛が嬉しいのです。
相対に分かれたとしても、本来は一つのものであるということです。
松原泰道さんは、”青春は二度ある”と主張されます。(松原さんの「足るを知るこころ」という本に書いてあった)
若き日の青春は、みなが通過して知っているとおり多感な時期です。そしてもう一つ、人生の紆余曲折を通過したのちに、最後に行き着く、静けさと清らかさに満ちた「本当の青春」があると言うのです。
なるほど、そうかもしれません。神の心がわかるようになり、最後には神の愛の懐の中に帰るのですから。本当の愛と一つになる。だから「青春」と呼ぶにふさわしい、初々しい気持ちになるのかもしれません。
神と共にある人生、愛のある人生を歩み始めた。これは新しい青春が訪れたと言えるかもしれない。
ぜひ、私もそういう境地に立ってみたいものだ。

〇 本性の源
人間には、神様から譲り受けた「本性」の面影がまだ残っているのです。だから人を深く掘り探れば、ある程度の答えが見つかるような気がします。しかし、人の考えでとどまると、そこには限界があるのです。神から離れたままでは本性の泉から水が沸き上がってきません。
仏教は人を探究することによって悟りを開こうとします。人間に答えがあると思っているのです(釈迦仏教は人間探求です)。確かに、多くの悟りはあるでしょうが、凡人には愛への飛躍は難しいです。だから真の仏へと帰依しなくてはいけなくなるのです。
宗教は、切れた関係を再びつなぎ合わせる、神との関係を回復させることにより、「愛」を取り戻し、人間性を回復させるという教えです。根源である神、「愛」に至らなければ、根本的な解決はありません。
仏教が「慈悲の心」に到達するためには、自分を越えたものに接さなくてはなりません。だから、大乗仏教では阿弥陀さまや観音さんなどの信仰の対象が現れてきたのです。
人がもつ愛や人間性(本性)は、人間自身から生まれたものではありません。根本を辿れば、神から譲り受けたものです。神が内に宿ってこそ、その愛が遺憾なく発揮されるのです。無限なる愛の泉となりえるのです。
人の根本に、神を、愛をおかなくてはなりません。自分を越えてゆかなければ、神と出会うことができません。
生きた神に出会うこと、本当の愛に出会うこと。自身の内に自分ではない愛の働きを感じることが大切です。
びっくりするような話ですが、高名な偉いお坊さんであっても、生きた神仏の存在というものを実際には信じておらず、生きた神仏との関係もなく、ただ単に自分の心の中の出来事としてとらえ、「宗教は心の持ち方です」と語る。信じるべきものは自分である、とおっしゃられる方もいるようです。祈りの生活(神との対話)もなく、ただ瞑想にふけり自分の心に問いただしているだけなのだ。仏教は哲学だと言い切る人さえいる。それだと「自分教」になってしまう。無神論者とほとんど同じである。
信仰者たるものは、自分が本当に神(仏)との関係が回復しているのかということを、自分に問いただしてみる必要がある。目に見えないことだけど、これは大切なことなのである。
自分を信じると言う場合は、単なる自分ではなく、神とつながった自分、愛に根差している自分というものを信じるということなのだ。「信心」とは、神(仏)につながった心を信じるということになる。
神仏ではなく、釈尊は「法」として残っているので、お経(法)を信じて、お経と一つとなった自分を信じて、自分が仏になればいいと言う方もおられます。大元である神(仏)の存在はかすれていってしまいます。もちろん、法は自分を正す上で大事なものではあります。しかしそれ以上に大元である神仏の存在、その愛と慈悲が大切なはずです。でなければ真の意味で私は生かされません。
柳宗悦は宗教思想家(宗教哲学者)である。単なる哲学者ではない。宗教が根底にあり、そこから思想が展開してゆく。神から出た思想である。それならわかる(筋が通る)。しかし、人が考えただけの哲学では根無し草のようで、どこに流されてゆくかわからない。実を結ばない虚しい(救いのない)教えとなりかねない。思想も神から出発しなくてはならない。愛に根差していなければならない。

〇 人の役割
なぜ神は人間を必要としたのか?
それを考えてゆくと、神の創造の目的(人間をつくられた目的)を知ることになる。ひいては、人の存在理由、なぜ存在しているのか(なぜ生きているのか)、どう生きるべきなのかという、「人生の目的」にもつながってゆく。
神は愛のお方である。でもお一人では愛を感じることは出来ない。愛するためにはその対象が必要である。愛し合って一つになってこそ喜びが生じるのである。だから神は相対世界を創り、そこに宿り、実体をもって愛を感じようとした。人と共に愛し合う喜びを知りたかった。幸せになりたかったのである。
愛(神)の目的は「幸福」しかない。それを人と共に実現したかったのである。
人が幸せになることは、神も幸せになることであり、人が天国に入ることは、神もともに天国で暮らすことなのである。
人間の役割(人生の意味)・・・目に見えない神様の愛を形にしてゆく。ストーリー(物語)にしてゆくこと。神の愛の世界を実現してゆくこと。幸せになること。(ともにいる神も喜ばれる)
神は人間を、ご自身の「形」として創られた。愛を形にするために造られた。私たちは、「愛のカタチ」にならなくてはならないのである。そうして光を放つ(輝く)、美を放つのである。それが神にとっての喜びである。
人の目的は、「愛」となり、神とともに喜びの世界に生きることである。
神(愛)を宿し、相対世界において愛し合い、美の世界(調和の世界)、喜びの世界(天国)を築くことにある。
そして、神に感謝する。神も人も幸せになる。
人間が罪を犯し、神から離れることがなければ、そのような世界が実現しているはずだった。
今あるのは、神のいない、本当の愛のない、偽りの世界(地獄のような世界)である。
だから、もう一度神との関係を取り戻し(修復し)、もとの教えに沿って、この目的を実現しなくてはならない。だから宗教が必要なのである。
宗教とは、神との関係を取り戻し、もとの教え(愛の教え)に従って、神とともに幸せになる(天国を実現する)ということなのである。
2026.3.3


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