戦争を終わらせるには

先日(9月12日)、難波市民学習センターで国連UNHCR協会の終活セミナーに参加してみた。
近年、資産の有効活用として「遺贈」ということが注目を浴びているらしい。当然のことながら遺贈分は相続税の対象にはならない。講師の先生から相続や遺言書の書き方、節税対策、遺贈寄付という道についても教えて頂いた。

うちの家は一人っ子だし、その子供も判断能力を欠く障害者なので、お金の取り扱いはわからない。後見人に任せることになるのだろうが、残れば国庫行きということになる。お金を残し過ぎると、後見費用が嵩むと言われるし、あったとしても本人の願う(プラスとなる)ように使われるかどうか疑わしい。「本人が望むようにお使いください」と施設にお願いするしかない。
一度に渡すのではなく月々年金のように渡せるように、障害者扶養共済制度(しょうがい共済)に加入したりする。親なきあと相談室で流行っている対処法としては、生命保険信託というのがある。そこでは、親なきあと残された子どもに、月々いくらか年金のように支払われてゆき、最終的に余ったお金は、親御さんの希望するところに寄付することもできるという。

遺贈することを遺言書に明記するのか、生命保険信託にお願いするのか、子供のことを第一に考えながらも、節税という観点から、タイミングを見計らって検討してみたい。

※ 念のために言っておくと、我が家には「遺贈」を声高に言えるほどのお金はない。

世界は難民が溢れている。テレビ・ニュースで報道されて、その映像は時々目にするが悲惨なものだ。恵まれて平和に暮らしている私たちは、少しでもお役に立ちたいと思い、寄付を希望される方もおられるだろう。支援することは大切なことであり、最前線におけるUNHCRの活動は本当に貴い。

とにかく難民は増え続け、人材も物資もお金も足らないらしい。寄付をして食料などの物資を送り続けることは重要なことなのだ。「資金と人員の不足により、受け入れ国でのUNHCRの活動が縮小されると、その結果は明らかです。命が失われるのです。」(グランディ国連難民高等弁務官)と言う。支援の停滞は死に直結する。難民の方々は戦争の犠牲者であり、あきらかに可哀想な境遇にあり、弱者であるのだから助けてあげなくてはならない。

UNHCR、およびそこに寄付をされた方々は、確かにその現場において人々を救っているのである。

しかし、ふと思うことだが(大変失礼な言い方かもしれないが)、これらのことは戦争がもたらした結果に対して対処しているのである。つまり後追いである。(もちろんそれらの支援は必要であり続けて頂きたいのだが、)戦争が起こり続ける限り、難民も増え続ける。終わりがない。原因である戦争自体をなんとか減らすことはできないものだろうか?

そもそもなんでそのようなこと(戦争)が起こるのだろうか。
みんなが平和を望んでいるにもかかわらず、戦争は起こり続けている。

人間は自分を正当化し、美化しようとするのでなかなか気づかない(自覚しない)が、人間自身の中に争いを引き起こす要因(衝動)、原因となる欲望(邪心)があるのだ。憎しみや恨み、許せないこと、受け入れられないこと、愛せないことがあるのだ。欲望についても万民に益するものばかりではない。自己中心な生き物である。表面的な対処だけでなく、根本的に人間(自分自身)に対して向き合わなくてはならない。

平和を望んでいると言いながら(美化しながら)、私腹を肥やし、自分の事ばかり考えている。無関心であることは冷たく残酷である。自分さえ良ければいい。目の前の事だけで浮かれている。現に世界中で悲惨なことが起きていながら、自分の身の回りが恵まれていれば平気でいられる。

関心を持つということは、寄り添うことであり、痛みを共有するということであり、次の行動(救済)へとつながってゆく。でも無関心な人が多い。

地球上の生き物の中で最も残酷で、害をもたらす生物が「人間」であると言われている。人間どうしで殺し合い、自然の法則に反して他の生き物を支配し絶滅に追いやる。地球さえも破滅に至らしめようとしている。むろんそうなれば人間自身も死滅する。矛盾を抱えたまま私腹を肥やす。最悪の生き物ではないか。でも、それが本当の人間なのだろうか?

戦争を終わらせることはできないのか。
物やお金を贈り続けても、戦争自体が終わらなければそれを後追いしているようなものである。
政治的な解決や外交努力、経済による圧力、軍事力の均衡(抑止力)どれも必要であるかもしれないが、根本的な解決には繋がっていない。なんとか大戦が起こらないようにと綱渡りをしているようだ。力のバランスや戦略、経済制裁や外交(かけひき)で一時的に回避はできても、火種は残っている。マグマのように人の恨みや憎しみは積み重なっている。(いつ噴火するかわからない)

戦争は人間が引き起こしているものである。為政者の心一つで引き金を引く結果となる。
表面的な出来事にばかり対処しているのではなく、人間自身を正していく、本来あるべき姿に変えてゆく努力の方が根本的な解決につながるような気がする。自分自身の内側に切り込んでゆかなくてはいけない。そして、そうすることを世の中の常識にするのである。

アメリカはキリスト教精神に基づいて世界平和に貢献してきた。にもかかわらずトランプ大統領就任以降、アメリカは自国第一主義となった。(これはキリスト教精神に反している)
国連が弱体化して、その役割をはたしていないとも言われている。国連の原動力は何なのだろうか。国連の精神はそのエンブレムが示している。オリーブの小枝によって世界地図が包まれているのは平和を願うキリストの精神を表している。人や国家や国連は精神的な支柱となるものを失いつつある。現実と欲望(利害関係)に振り回されて右往左往するばかりである。キリスト教精神(宗教)の衰退が、戦争の増加につながっている。

人の心に何かが欠けてきているようだ。
近年、科学技術やAIの進歩により、人はさらに現実的になり、祈るよりスマホで検索するようになり、神から遠ざかっているような気がする。宗教の衰退は、神(愛)から遠ざかることを意味し、結果、人間の欲望がうごめき、戦争が増えているようである。データばかりを重視し、AIに救いを求めたとしても小賢しくなるだけであり、精神的な支柱とはなりえない。巧妙に自己の欲望を満たすようになる。

神から離れることにより、人間の欲望(煩悩)が剥き出しになり、自分を正当化しながら(自己中心になり)侵略を続けている。戦争や紛争が増え、その結果として難民は増え続けている。UNHCRの活動だけでは追いつかなくなる。悲惨な結果に対して人道支援を求めてはいるが、それを引き起こす根本に対しては触れようとしない。それではいけないのではないだろうか。
「人間」自身に問題があるとするならば、人道を説いたところで、その人間では解決に繋がらない

自己中心ではなく利他的にならなくてはいけない。その為には神の愛と一つになって本来の自分を取り戻さなくてはいけない。

24時間テレビのキャッチコピーではないが、「愛は地球を救う」と本気で思うなら、宗教に対して本気で取り組まなくてはいけない。宗教とは内なる心の声である。そこに愛があるのかという話しである。
あなたの心の中に本当の愛があるのか? 無いのであれば、愛を探しに行かなくてはならない。心の教えに従って、人間自体を変えてゆかなくてはいけない。これが、恩讐を乗り越える道であり、世界が救われる道なのである。

人は器である。その心に何を宿すかによって正にも邪にもなる。それを見極めるために宗教を必要とするのである。

世界は再び人間の欲望が渦巻く、覇権争いが席巻しつつある。神を否定し、自分が神にとって代わるかのように独裁者が生まれ、自己中心のまま宗教の教えを逆手にとって利用し、戦争を正当化しようとしている。
人が神を否定するのは、自分を正当化する為(罪を隠すため)であり、神にとって代わろうとしているからである。神はいないと心の声を否定し、嘘をついている。

宗教は根本において同じである。同じ神から生じたものである。(と、私は思う)
だから、どの宗教にも似たような教えがある。万民は家族(兄弟姉妹)であり仲間(友)であると教え、内なる心の声に従いなさいと言う。自己中心ではなく愛や慈悲の心と一つとなりなさいと言う。
キリスト教には愛敵の教えがある。7の70回相手を赦し、迫害する者のために祈れと言う。ヒンドゥー教ではガンディーが説いたように非暴力主義があり、仏教も慈悲の心を抱けば悪人でさえ救われると説く。イスラム教も本当の教えは人に対してとても優しい。神のもとに平等であることを説き、貧しい人を助ける「喜捨」、相互扶助を義務づけている。

宗教が全く同じであると言っているのではない。多様であって当然である。ただ本質(根っ子)が同じであると言っているのだ。愛がなく、慈悲の心を失うとしたなら、人間が人間でなくなってしまうということである。生きた教え、生きた神、生きて働く「愛」と「慈悲」を掴まなくてはいけない。

もっとお互いの宗教を尊重すべきであり、早く同じ神であることに気づくべきである。

受け止める側である人間の個性や文化の違いにより表現は違うけれども、よくよくその本質を見極めれば同じなのである。それを認めれば同じ神のもとつながり合う(互いを尊重する)ことができる。宇宙の根本には愛がある。愛によってのみ平和は築かれる。宗教の融和と復興は、平和の基礎となる。

宗教が本当に機能したなら、人の心は改まり、戦争ではなく平和へとむかうはずである。

人が多様であるために、宗教も多様なものとして顕われるが、その本質を突き詰めると「愛」や「慈悲」に行きつく。同じもの、同じ神、同じ心にたどり着く。他者を認めることは偶像崇拝にはあたらない。ただ、同じものにたどり着いているだけである。本質を極めれば、融和に至るのである。
自分本位に宗教の教えを利用することの方が、自分を偶像に仕立て上げているのである。自分の信じることのみを正当化し他者を排除する、そのような排他的教えこそが偽善であり、自分が神にとって代わろうとする偽宗教なのである。覇権争いの為、宗教を利用している。偽者の心の中には神はいない。愛はない。神に化けている自分(自己中心)でしかないのである。自己中心のまま、他者(他宗教)に対して敵愾心を持たせ、独裁の為(正当化の為)の道具として利用するのではなく。本来の、本当の宗教に帰らなければならない。

人の力で解決できるのならば、戦争はとうの昔に解決している筈である。人の力ではどうすることもできないから繰り返している。恨みを抱いたら恨みを抱いたままである。やられたらやり返す。報復行為として戦争が正当化されてしまう。エンドレスである。それを越えられるのは、愛の教え、慈悲の教え、神の教えのみである。心の奥からそのような思いが湧いてこなければならない。それが戦争を終わらせる唯一の道であると思う。本当の愛を求めてゆかなくてはいけない。

重い障害を乗り越えてゆく愛は、人の思いではなく、必要なのは神の愛に近づいてゆく努力である。
戦争を回避してゆくための愛も、人の思いではなく(それではどうにもならない)、神の愛に近づく努力が必要である。愛し難きものを愛する、許しがたきものを許す。人を越えた愛を求める点において、そこには共通点がある。だから、私は障害の事だけでなく平和のことについても書いてみようと思った。

科学技術の進歩、AIの普及、人が神にとって代わるような時代になろうとしているが、それでは本当の心が満たされない。本当に必要な物は「愛」なのである。だから、AIが持て囃され普及すると同時に、その一方で「こころの時代」、宗教の時代が来なくてはいけない。もし世界に本当の平和が訪れるとするならば、それは「神は愛である」という真実を受け止め、人がその愛(神)を心に抱くということ、それが唯一の平和への道であるということである

ただ、気をつけねばならない。
言葉は解釈の仕方によって、いかようにも受け止められる。聖典の言葉であってもそうだ。悪用される可能性がある。人を攻撃するための材料(道具)とされたり、聖戦だと言って血を流す結果になることもある。だから、祈りながら生きた言葉に出会わなくてはいけない。心から湧きいずる声に従うべきである。

信仰があるようにふるまうことは簡単である。どこぞの宗教・宗派に所属し、肩書を持ち、それなりの儀式に参加していれば、いかにも信心深いように見られる。しかし私の言おうとしていることはそうではない。自分を超えて、真に心の声に耳を傾け、神を抱き、愛に生きるということなのである。それは目に見えない。

そのような潮流が、静かに、ひたひたと潮が満ちるように広がってゆくことにより、隠れたところで人の心を動かし(為政者の最後の決断を左右する)、戦争が収まっていくように思われるのである。
神の愛と神の言葉が浸透することにより、最後は、私たち一人一人の心が戦争を終わりにするのだ。

宗教は、静かな心の革命、戦争の回避、平和への道なのである。

今回この原稿を書いた理由は、
人々の関心を結果に対してだけでなく、原因の方にも向けてもらいたい、そう思ったからである。

戦争の悲惨さや犠牲者のことを伝える。難民の救済や復興支援に関心を持つ。それらのことは重要ではあるが結果に対する対処である。結果を指摘し、繰り返してはいけないと言いながらも、戦争は終わることなく、支援が追いつかないほど難民も増え続けている。

結果に目を向けるだけでなく、原因に対しても切り込んでゆかなくてはいけない。人間自身(自分自身の心)に対して追及しなくてはいけないことがあるのではないかと思うのです。我々は人を美化し、自分を正当化しようとするので、内側に向けて問いかけようとしないのである。
つまり戦争を引き起こす人間の内面、自己中心的な欲望をどうすればいいのかということ。人間の本来のあるべき姿を求め、人の内側に愛(神)を見いだすというところに目を向けて頂きたいのです。

人の内面に対して反省を促し、内なる革命をもたらさなくては戦争は終わらない。
その役割を心の声、宗教が担っていると思うのです。

2025.9.16

PS: 先月、「ベスト・キッド・レジェンズ」という映画を観た。私はこのシリーズが好きである。
戦争を終わらせる為の力、障害を乗り越える為の本当の力はどこにあるのだろう。
「本当の力は内から湧いてくる」、そう言って手を合わせた。カラテ・キッド4での宮城先生の言葉である。この一言はこの映画シリーズに一貫しており、大ヒット作となった理由でもある。

流れてくる曲も「Listen to Your Heart」(心の声を聞け)である。

ストーリーは先が見えるほど単純だし、アクションシーンも派手ではない。宮城先生は一見、ただの“おっさん”のようである。それなのに、何故カラテ・キッド(ベスト・キッド)が好まれるのかというと、内なるものを引き出そうとしているからである。心の声が主役だからである。だから、ディフェンス・オンリーだし、相手を赦し、最後には相手を生かそうとする。

宮城先生は仏教徒である。作中、神という言葉は使われていないが、禅の心はクリスチャンの心にも響くのである。無心の心、禅の心で、自分の内側に仏の心(神)を見いだし、愛によって勝利を収めた。この精神性、宗教心はキリスト教にも通じるのである。おそらく他のいかなる宗教でも、それが真実なものであれば通じているだろう。

宗教は融和し、「愛」に至るのである。

「レジェンズ」は6作目となる。ジャッキーがカンフーの先生、宮城先生の弟子ダニエルさんがカラテの先生という役柄です。二人でリー少年を育てます。カンフーとカラテについて、” Two branches, One tree.” という台詞が出てくる。「一つの木の二つの枝」、元を正せば同じ木であり、根っ子は同じであるという意である。だからいがみ合うことなく、仲良く弟子を教えていた。両方のいいところを引き継ぐことができたのである。

東洋人と西洋人も人としては同じであり、根っ子は同じととらえることができるし、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教も” Three branches, One tree.”と言えるかもしれない。根っ子は同じなのでいがみ合う必要はない。わだかまりを捨てて神の愛に立ち帰るべきである。

心を支えるものが一つとなれば、本当の力を発揮することができる。人を生かす力です。全ての結果を変えてしまうことができるかもしれません。

内側にあるものが外に表れるのです。心を正すことができれば結果はおのずとついてきます。