|
事はすでに成った
神は愛である。愛をもって人を救おうとされている。 この世は多様である。罪深き人も多い。 多様でありながら一つ。 神が愛であり、人を救うという決意があるから、道が開けるのです。 ヨハネの黙示録 21章6節~7節 神が絶対者であり、全き愛であるということは、世界が一つになることによって証明されるだろう。 いのちの水とは、真理の言葉(御言葉)である。神は常にその人にふさわしい言葉を、啓示(インスピレーション)をもって与えている。必要なものは与えられている。あとは神とともに「愛の勝利者」となることである。
〇 衣を洗うということ ヨハネの黙示録 22章12節~14節 「衣を洗う」とは、罪をぬぐい、洗い清めるということを意味している。 だから、「早く悔い改めて、償いの期間を経て、帰ってきなさい」と言われるのです。 涙をもって悔い改める人を見て、イエスは「汝の罪は許された」と言われた。 私たちは、自分だけのことではなく、歴史的にも多くの罪を背負っている。多くの恨みを抱えているのである。だから、神が一方的に許して決着するわけではない。恨みを残してはいけないのです。 神は、最短のコースを準備して、出会わさせてくれる。(因縁とも言う) 神は、心の中に愛を与え、全てを導き、勝利できるように励ましているのである。 我々凡人であっても、何かをなそうと真に(本気で)決意した時に、その決心の強さによっては、すでにもう八割がた成就したようなものだと言えることがある。「決意八割」である。決意さえすれば結果はついてくる。それが、神の決意ならば、揺らぐことはないので絶対なのである。
〇 大願はすでに成就している 仏教(浄土教)について見てみよう。 阿弥陀様も必ず衆生を救いとる。浄土に迎え入れるとおっしゃる。 浄土教では、法蔵菩薩が「願」を立て、正覚を取ることにより、念仏往生の願は成就している、と言う。そこには衆生を何としてでも救おうとなさる、「大悲」の存在が感じられる。 順番から言えば、まず、法蔵菩薩がいて「願」を立てられて、それを認められたがゆえに正覚を取られた。そして阿弥陀如来になられたので、それは「願」が成就していることを意味する。一般的には、そのような流れ(ストーリー)になっている。 正覚が願を呼ぶのである。 まず、「仏」ありき、「大悲」ありきから出発するのである。 神の愛があるから、仏の大悲があるから、すでに人々の救いは決定しているのだと言える。 結論は出ているのだが、その為に、どのような手段をとるのかということである。
〇 仏教の教え 白楽天は質問しました。どんな仏にも共通する仏教の基本的な教えは何ですか? 諸悪莫作(しょあくまくさ)・・・もろもろの悪をなすことなかれ 言葉としては、子供でもわかるような簡単な(あたりまえの)内容である。けれど、八十の老翁でも、これを行うことは難しいんですよ、と禅師は答えた。「悪いことをしてはいけませんよ。善いことをしましょう。心を清く保ちましょう。」この三つです。 善いこととは、どんなことでしょう? 布施:財施、法施(真理を教える)、無畏施(恐怖を除き、安心を与える)の3種。 お布施をしましょう。真理を伝えたり、困っている人を助けたり、「福祉」も仏教が促す善です。 『四諦』(四聖諦)と呼ばれる四つの真理がある。苦諦、集諦、滅諦、道諦の四つです。「苦集滅道」とも言います。 仏教の真髄は、苦行仲間五人に対して行った最初の説法(初転法輪)で説いた四つの真理(四聖諦)にある。これが仏教の基本であり、これを知った上で、「他力」の道を模索するのがいいかと思います。その方が救いの意味(有難さ)がよくわかります。 『四聖諦』(ししょうたい) ① ドゥッカ(苦)の本質。生老病死(四苦八苦)、人生の本質は苦しみ。「無常」である。 ② ドゥッカの生起。我執によって「煩悩」(108の煩悩)が生じる。煩悩が「苦」の原因である。 ③ ドゥッカの消滅。「苦」を消滅させる。解脱してニルヴァーナ(涅槃)に至る。ニルヴァーナは絶対真理であり、我々の為すべきことはそれを体現すること。般若(智慧)によって煩悩を根源から絶つ。 ④ ドゥッカの消滅に至る道。ニルヴァーナ「涅槃」の実現に至る道。幸せになるための道。それが、中道であり、「八正道」であると説く。涅槃とは、煩悩を滅尽して悟りの智慧(菩提)を完成した境地のこと。 もう少しわかりやすく言いますと、 仏教の教えは科学的だという人もいます。なぜなら「因果応報」、筋が通っているからです。原因があるから結果があるという考え方です。 そして、仏陀は、真の幸福になる道として、『八正道』を説きました。 1)正見(正しい見解) この「正しい」ということが難しい。何を基準にして正しいとみるかである。自分の勝手な判断ではいけない。仏さまの目から見て正しいことをする。だから仏道なのである。 これを自力で本当にできるなら、相当修行を積まれたお坊さんだと思います。 私(自力)ではできませんが、仏を念じて仏の心を宿せば、その慈悲心(観音力)によって為せることがあると言います。仏さまの慈悲心が私を通して働くのです。だから、一心に念仏を唱えなさいと教えます。これらのことは、仏さまを宿し、慈悲の心を持たないとできないことなのです。 浄土教では、他力の教えとして、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えなさいと言います。 要するに、我執(自分に執着する心)によって煩悩が生じるのですから、自分を捨てて、仏さまの心と一つになればすべて解決するというわけです。 我執から生じる「煩悩」が苦の原因、不幸を生み出す根源なのです。仏さまの心から生じる「慈愛」は幸せを生み出す根源です。だから、仏さまの心の方につなぎ合わせればいいのです。 自力で慈愛を生み出すのは至難の業です(自分に愛などないのです)。仏さまと一つになれば慈愛は自ずと得られるものです。仏さまの心と一つになれば、慈愛が心の中を満たし、自然と自分がなくなり、煩悩が消えてゆくのです。その仏さまの心によってもたらされる国が仏国、「浄土」なのです。 「大悲の弥陀に審判者の性格はない。大悲は憎しみの反面を持たぬ愛である。 だからいかなる人であっても、引き摺られるようにしてでも、浄土へと摂取されてゆく。
〇 キリスト教の教え イエスは律法を否定したわけではない。より本質的なことを説いたのです。 マタイによる福音書 7章12節
ルカによる福音書 10章27節 イエスは『愛の教え』を説いた。 神の愛が、どういう愛なのかを理解すべきです。
神の霊が共に働いているのを、そばで感じることができる。それが信仰の醍醐味です。 神は、ご自身がそのように愛すると決意されているから、「事は成った」と言うのです。 イエスが十字架で亡くなり復活した後に、弟子たちは真実に気が付き、信仰を取り戻してイエスと一つとなりました。それまで頼りなく、弱虫だった弟子たちが、人が変わったように急に強く逞しくなり、神の言葉を語りはじめ、殉教してまで愛を示し続けたのです。 聖フランチェスコの「平和を求める祈り」 神よ、 我々は、神にゆだね、神とともに愛することを決意すればいいのです。
〇 他力とは何か 愛があるから悔い改めが誘発される。慈悲の心があるから、帰命せざるを得なくなる。 このようにして救われてゆくから『他力』と呼ぶのである。 もちろん自分も努力したのだけれど、そもそも神の愛がなければ、仏の慈悲がなければ、「救い」は成立しないのです。ゆく道(帰る道)がありません。 自分だけで悟れる、自分(自力)だけで救いの道は切り開ける。そう思うのは錯覚であり、単なる自分の独りよがりでしかない。一番大切なものを見落としているのです。 神様は優しいので人の努力も認めて、「他力と自力、二つ合わさって救いが成立したのですね」と言われるでしょう。子供をいたわるかのように・・・ 〇 感謝の祈り 時空を超えた、永遠という神の時間尺から見たなら、事はすでに成っているのである。 神の中においては、その決意によって、大願はすでに成就されている。行き着くところはそこ(天国)しかないのである。大悲の神が、喜びの神になる日を待つだけです。 天国(浄土)に迎え入れられたなら、人々がなすべきことは神を賛美し、「感謝の祈り」をささげること、仏さまに対して「報恩感謝」することだけなのです。 天国において、浄土において、神の愛の中、仏の慈悲の中で、神(仏)とともに生きることになるのです。感謝しかありません。 仏さまの「本願」と、神の「必ず救う」という決意はよく似ています。 2025.12.5
【考察】 仏教とキリスト教に関する印象を書いてみますと、 キリスト教は神の側からの啓示、神からつかわされた人(神の子・イエス)を通して直接語られた神の言葉なので、いたってシンプルである。神はこうである。真の愛はこうだとはっきりと語られる。 それに対し、仏教は人間の側から真理を探究してきた。悟りを開こうと修行を積み、座禅を組んで考えに考えてきた。哲学的な要素を多く含む理論である。ああでもない、こうでもないと思考を重ねるうちに膨大な数の法典が出来上がった。念仏のようなシンプルなものから、曼陀羅のように広大で複雑なものまである。人間側の方法論はいろいろある。そして覚者を崇拝する。 思考の方向性が違うけれども、全く矛盾しているわけではない。最終的に同じ答えに行き着くはずである。真理は一つなのだから。 他宗教についても同じである。そのおかげで、真理が深みを増すのである。 信仰とは、神(仏)と私の一対一の関係なので、私の中でそれらの教えが整理され、一つになっていればそれでいいのです。各々が道を見つければいい。 真理は一つ、神は一つである。いくつもあったのでは真理とは言えないし、矛盾していることになる。多元論、多元世界になってしまうので、分裂しても仕方ない。 「多様でありながら一つ」。そうあるためには、本質的な教え、根本にある愛は「一なるもの」でなくてはならないのです。
【考察、その2】 仏教について 以下は私の個人的な見解(推察)を含みますが・・・ 仏陀が求め、考え続けてきたのは、「苦」と何か(苦しみの本質を見極める)ということ、その苦からどうすれば逃れることができるのか(苦を滅することができるか)ということであった。その智慧を得て、涅槃の境地に立つことが目標だった。そして、覚者になることによってそれを達成したのである。 仏陀は悟りを開き、覚者となった。確かに、個人としては安らぎを得たのだろう。 覚者となった仏陀は無心(清浄な心)となり、やがて見え始めた(感じ始めた)のである。仏さまの存在と慈悲の心が。人に幸せをもたらすのは、智慧だけでなく慈愛なのだということ気づいた。 宇宙の大いなる生命の中に「四無量心」(慈悲喜捨)があることを感じ取ったのである。 それ以来、仏陀自身も慈悲の心に目覚め、人々の救いの為、生涯を布教に務めた。 だから後の仏教には、「慈悲」を象徴する観音さまや阿弥陀如来が登場する。 仏陀が得た智慧を基盤として、仏(神)さまの心、「慈悲の心」に至るのが仏教である。 もし、智慧がなければ救われないとするならば、知能の低い人(知的障害者)は救いの外に置かれることになる。(対象外である)しかし、慈愛によって救われるとするなら、一人ではできなくても、愛する人と愛される人がいて、両者が一つになればともに救われることになる。(親子で救われる) 愛することさえできたなら、悲しみを癒し、ともに救われる道が開ける。 自分にその愛がないとするならば、念仏を唱えることにより仏さまと一つになり、仏さまの慈悲の心を分けて頂けばいいのである。そうすれば私自身も「慈悲」となるのである。 これが仏教のもたらす救いである。 2025.12.11
|