事はすでに成った

神は愛である。愛をもって人を救おうとされている。

この世は多様である。罪深き人も多い。
それが一つになり、神の御国に入ることなどできるのだろうか?
はっきり言って、人の力(自力)だけでは無理である。

多様でありながら一つ。
一つになりえるのは中心に愛があるからである。「一なるもの」が存在するからである。
すべてを包み込み(かき抱いて)、愛する、神がおられるからです。
だから、アルパであり、オメガとなりえるのであり。神は、初めであり終わりなのである。
愛から始まり、愛の世界(天国)へと結実する。「一」とは神であり、愛のことなのです。

神が愛であり、人を救うという決意があるから、道が開けるのです。

ヨハネの黙示録 21章6節~7節 
「事はすでに成った、わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終わりである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」

神が絶対者であり、全き愛であるということは、世界が一つになることによって証明されるだろう。
この「絶対」とは、言ったことは必ずなすということであり、一人もとり残すことなく、必ず救うという意味である。「事はすでに成った」と言うのは、神の絶対性と、その決意の強さを物語っている。
必ず約束の地(浄土・天国)へと導くと誓っているのである。

いのちの水とは、真理の言葉(御言葉)である。神は常にその人にふさわしい言葉を、啓示(インスピレーション)をもって与えている。必要なものは与えられている。あとは神とともに「愛の勝利者」となることである。

〇 衣を洗うということ

ヨハネの黙示録 22章12節~14節 
「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。私はアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである。いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。」

「衣を洗う」とは、罪をぬぐい、洗い清めるということを意味している。悔い改めて、償いの期間を通過して、許しの門をくぐるということである。いのちの木とはキリスト、本当の人間、本当の私に出会うことを意味し、そこに至るということ。そして、都に入るとは、「天国」に入るということである。

だから、「早く悔い改めて、償いの期間を経て、帰ってきなさい」と言われるのです。真心を込めて歩めば、辛いその期間は短くなる。(ただし、反省することも、悔いることもないなら、いつまでも許されず、地獄の中をぐるぐる回って過ごさねばならない)

涙をもって悔い改める人を見て、イエスは「汝の罪は許された」と言われた。大切なのは中身です。

私たちは、自分だけのことではなく、歴史的にも多くの罪を背負っている。多くの恨みを抱えているのである。だから、神が一方的に許して決着するわけではない。恨みを残してはいけないのです。

神は、最短のコースを準備して、出会わさせてくれる。(因縁とも言う)だから、試練を受け止め、苦しみを甘受し、真心を込めて歩むことにより、許される時が早く来る。「もういい、これで十分だ」「あなたを許すことができる」、というようになったら門は開くのである。許し、許される関係になったなら、あとは愛し合い、大元である愛(神)のもとに帰ってゆけばいいだけである。人々は愛の世界(天国)に入ってゆくだろう。

神は、心の中に愛を与え、全てを導き、勝利できるように励ましているのである。神は、「愛」に対して確信を持たれている。必ず勝利する日が来ると。だから、決意した瞬間に、「事はすでに成った」と言ったのである。

我々凡人であっても、何かをなそうと真に(本気で)決意した時に、その決心の強さによっては、すでにもう八割がた成就したようなものだと言えることがある。「決意八割」である。決意さえすれば結果はついてくる。それが、神の決意ならば、揺らぐことはないので絶対なのである。

〇 大願はすでに成就している

仏教(浄土教)について見てみよう。

阿弥陀様も必ず衆生を救いとる。浄土に迎え入れるとおっしゃる。
だから、阿弥陀様の名前を呼びなさい。「南無阿弥陀仏」と称えなさい。自分を捨てて、慈悲の心へ帰命しなさい。と言われます。

浄土教では、法蔵菩薩が「願」を立て、正覚を取ることにより、念仏往生の願は成就している、と言う。そこには衆生を何としてでも救おうとなさる、「大悲」の存在が感じられる。
仏さまは、「事はすでに成った」と言っているようだ。

順番から言えば、まず、法蔵菩薩がいて「願」を立てられて、それを認められたがゆえに正覚を取られた。そして阿弥陀如来になられたので、それは「願」が成就していることを意味する。一般的には、そのような流れ(ストーリー)になっている。しかし、本当は逆で、そう仕向けたのは仏ご自身である、という見方もある。先にあったのは「救おう」とされた仏さまの決心(仏の悲願)であったという。救わずにはいられない、大悲の思いがあったのである。

正覚が願を呼ぶのである。
「法の世界においては、想うということは行うことである。行いを約束せぬ願いは願いとはいえぬ。如来が如来たるために悲願を起こしたのである。それは『如来行』である。真実には、阿弥陀仏が法蔵菩薩に化現したとみる方がさらに深くなる。」と柳宗悦は言う。

まず、「仏」ありき、「大悲」ありきから出発するのである。そして法蔵菩薩をもって「願」を立てさせ、救いの道を開いているのである。大元に、必ず救いとるという仏の決意があるのである。

神の愛があるから、仏の大悲があるから、すでに人々の救いは決定しているのだと言える。目には見えないけれども、この世にもそのような思い、「大悲」が満ちているということなのです。

結論は出ているのだが、その為に、どのような手段をとるのかということである。
我々はどのような道を行くべきなのだろう。

〇 仏教の教え

白楽天は質問しました。どんな仏にも共通する仏教の基本的な教えは何ですか?

諸悪莫作(しょあくまくさ)・・・もろもろの悪をなすことなかれ
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)・・・もろもろの善を行じたてまつれ、善いことをやりましょう
自浄其意(じじょうごい)・・・自らそのこころをきよめなさい
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)・・・これ諸仏の教えなり

言葉としては、子供でもわかるような簡単な(あたりまえの)内容である。けれど、八十の老翁でも、これを行うことは難しいんですよ、と禅師は答えた。「悪いことをしてはいけませんよ。善いことをしましょう。心を清く保ちましょう。」この三つです。

善いこととは、どんなことでしょう?
お釈迦さまは、あらゆる善を6つにまとめて、『六波羅蜜』を教えました。

布施:財施、法施(真理を教える)、無畏施(恐怖を除き、安心を与える)の3種。
持戒:戒律を守ること。
忍辱:苦難に堪え忍ぶこと。
精進:たゆまず仏道を実践すること。
禅定:瞑想により精神を統一させること。
智慧:真理をみきわめ、悟りを完成させる智慧。

お布施をしましょう。真理を伝えたり、困っている人を助けたり、「福祉」も仏教が促す善です。
仏教における「戒」とは、殺さない・盗まない・不倫をしない・嘘をつかない・お酒を飲まない(飲みすぎないように)の五戒があります。(聖書にあるモーゼの十戒と似ています)
智慧を得て、悟りを完成させ、「覚者」となることが目標です。

『四諦』(四聖諦)と呼ばれる四つの真理がある。苦諦、集諦、滅諦、道諦の四つです。「苦集滅道」とも言います。

仏教の真髄は、苦行仲間五人に対して行った最初の説法(初転法輪)で説いた四つの真理(四聖諦)にある。これが仏教の基本であり、これを知った上で、「他力」の道を模索するのがいいかと思います。その方が救いの意味(有難さ)がよくわかります。

『四聖諦』(ししょうたい)

① ドゥッカ(苦)の本質。生老病死(四苦八苦)、人生の本質は苦しみ。「無常」である。

② ドゥッカの生起。我執によって「煩悩」(108の煩悩)が生じる。煩悩が「苦」の原因である。
三毒と五蓋あり。「三毒」とは、貪欲・瞋恚(しんに)・愚痴である。瞋恚とは憎しみのことであり、愚痴は物事の正しい道理を知らないこと、特に十二因縁の無明が、最も根本的なものである。
「五蓋」(心を覆うもの)では、欲愛・渇望が根深いものであるとされる。

③ ドゥッカの消滅。「苦」を消滅させる。解脱してニルヴァーナ(涅槃)に至る。ニルヴァーナは絶対真理であり、我々の為すべきことはそれを体現すること。般若(智慧)によって煩悩を根源から絶つ。

④ ドゥッカの消滅に至る道。ニルヴァーナ「涅槃」の実現に至る道。幸せになるための道。それが、中道であり、「八正道」であると説く。涅槃とは、煩悩を滅尽して悟りの智慧(菩提)を完成した境地のこと。

もう少しわかりやすく言いますと、
人生は苦なり。その苦しみの原因は人の心にある。我執によって「煩悩」が生じる。特に、貪欲・愛欲・渇望はひどい。自分に執着するからいけないんだ。煩悩を滅して、幸せに至る道を歩みなさい。簡単に言うと、そのようなことが書かれている。

仏教の教えは科学的だという人もいます。なぜなら「因果応報」、筋が通っているからです。原因があるから結果があるという考え方です。

そして、仏陀は、真の幸福になる道として、『八正道』を説きました。

1)正見(正しい見解)
2)正思(正しい思惟)
3)正語(正しい言葉)
4)正業(正しい行い)
5)正命(正しい生活)
6)正精進(正しい努力)
7)正念(正しい思念)
8)正定(正しい精神統一)、この八つを「八正道」いう。

この「正しい」ということが難しい。何を基準にして正しいとみるかである。自分の勝手な判断ではいけない。仏さまの目から見て正しいことをする。だから仏道なのである。
仏さまの目で見るなんてできるんだろうかとも思いますが、仏陀曰く「一切衆生悉有仏性」、どんな人であっても仏の性質を備えている、だから大丈夫だと言うことなのでしょう。

これを自力で本当にできるなら、相当修行を積まれたお坊さんだと思います。「言うは易く、行うは難し」です。煩悩まみれの私たちにはなかなかできることではありません。しかし、できる出来ないは別として、一生懸命努力することは必要かと思います。そして、難しい場合には「他力」にすがりましょう。

私(自力)ではできませんが、仏を念じて仏の心を宿せば、その慈悲心(観音力)によって為せることがあると言います。仏さまの慈悲心が私を通して働くのです。だから、一心に念仏を唱えなさいと教えます。これらのことは、仏さまを宿し、慈悲の心を持たないとできないことなのです。

浄土教では、他力の教えとして、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えなさいと言います。
仏に帰依し、慈悲の心と一つになりなさいと教える。そうすれば、あの世に行くときは、阿弥陀様が迎えに来て下さり、必ず救い取って(摂取して)下さる。「浄土」に入ることができる、と言うのです。

要するに、我執(自分に執着する心)によって煩悩が生じるのですから、自分を捨てて、仏さまの心と一つになればすべて解決するというわけです。自力で何とかしようとするのではなく、救おうとされている大悲の仏さまと一つになれば、容易に道は開けるのです。だから仏様のお名前を呼びましょう、念仏を唱えましょうと言うことです。

我執から生じる「煩悩」が苦の原因、不幸を生み出す根源なのです。仏さまの心から生じる「慈愛」は幸せを生み出す根源です。だから、仏さまの心の方につなぎ合わせればいいのです。

自力で慈愛を生み出すのは至難の業です(自分に愛などないのです)。仏さまと一つになれば慈愛は自ずと得られるものです。仏さまの心と一つになれば、慈愛が心の中を満たし、自然と自分がなくなり、煩悩が消えてゆくのです。その仏さまの心によってもたらされる国が仏国、「浄土」なのです。

「大悲の弥陀に審判者の性格はない。大悲は憎しみの反面を持たぬ愛である。それ故、浄も不浄をも摂する。賢も愚も受取る。悪でさえも穢れさえも柔らかく包む。これが大悲である。」―柳宗悦『南無阿弥陀仏』

だからいかなる人であっても、引き摺られるようにしてでも、浄土へと摂取されてゆく。
弥陀がそういう方なので、周りで許し難いと思っていた人も、許さざるを得なくなって、融和してしまう。それほどの決意と主体性をもった愛なのである。一番つらい思いをしてきた大悲の神(仏)がそれほど愛し、許しているのであるならば、人間は許さざるを得なくなってしまう。(恨み言をいえなくなるのである)
そこまでしてでも人を救おうとされる。それが大願であり、大悲なのである。

〇 キリスト教の教え

イエスは律法を否定したわけではない。より本質的なことを説いたのです。

マタイによる福音書 712
「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。」

ルカによる福音書 10章27節
彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。

イエスは『愛の教え』を説いた。
七の七十回許し、敵を愛し、迫害する者の為に祈れと言う。そうやって恨み(恩讐)の峠を越え、神のもとへと帰れる道を示したのである。

神の愛が、どういう愛なのかを理解すべきです。
許し難きを許し、愛し難きを愛し、その痛みと悲しみに耐え、全てを包み込んで(かき抱いて)愛する。一つにする愛なのです。

信仰をもち、神と一つになれば、私たちもそのような愛し方ができるようになるというのです。
もちろん、自分の力だけで愛するわけではありません。(私にはそのような愛はなく、無理なことです)神が私たちの内にあって、そのように愛してくださるのです。愛するのは神です。
私を通して神が愛するのです。私は通過体(器・道具)のようなもの、その愛は神から来たものです。

神の霊が共に働いているのを、そばで感じることができる。それが信仰の醍醐味です。

神は、ご自身がそのように愛すると決意されているから、「事は成った」と言うのです。
私たちは神にゆだね、神と共にあることによって、険しい道も歩み切ることができるのです。

イエスが十字架で亡くなり復活した後に、弟子たちは真実に気が付き、信仰を取り戻してイエスと一つとなりました。それまで頼りなく、弱虫だった弟子たちが、人が変わったように急に強く逞しくなり、神の言葉を語りはじめ、殉教してまで愛を示し続けたのです。それは、神が弟子たちの中に宿り、神が愛したのです。

聖フランチェスコの「平和を求める祈り」

神よ、
わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、
いさかいのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
闇に光を、
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。
慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。
わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ、
自分を捨てて死に、永遠のいのちをいただくのですから。

我々は、神にゆだね、神とともに愛することを決意すればいいのです。

〇 他力とは何か

愛があるから悔い改めが誘発される。慈悲の心があるから、帰命せざるを得なくなる。

このようにして救われてゆくから『他力』と呼ぶのである。
罪人が、汚れた自分たちの手だけで、何をどうできると言うのだ。自分たちには、許し許されるという資格などないのです。それができるのは神(仏)の全き愛のみである。救いの道が整えられていたからこそ、そこを歩んでいくことができるのです。

もちろん自分も努力したのだけれど、そもそも神の愛がなければ、仏の慈悲がなければ、「救い」は成立しないのです。ゆく道(帰る道)がありません。待っている神(親)がいるから、(罪を犯した子でも)帰ることができるのです。救いの道は開かれていたものであり、私は導かれていったのです。

自分だけで悟れる、自分(自力)だけで救いの道は切り開ける。そう思うのは錯覚であり、単なる自分の独りよがりでしかない。一番大切なものを見落としているのです。

神様は優しいので人の努力も認めて、「他力と自力、二つ合わさって救いが成立したのですね」と言われるでしょう。子供をいたわるかのように・・・
でも本当は、ほとんど神様のおかげなのです。内に働いたのも神、外から導いたのも神なのです。

〇 感謝の祈り

時空を超えた、永遠という神の時間尺から見たなら、事はすでに成っているのである。
全身全霊をもって愛した人間が、天国(浄土)に入らないことなどありえないのです。それは神の名に懸けて、愛にかけて、そうなるのです。想いが強ければ、それは必ず成就するのと同じです。

神の中においては、その決意によって、大願はすでに成就されている。行き着くところはそこ(天国)しかないのである。大悲の神が、喜びの神になる日を待つだけです。
「必ず救う」という仏の誓い、神の誓いは絶対的なものなのです。

天国(浄土)に迎え入れられたなら、人々がなすべきことは神を賛美し、「感謝の祈り」をささげること、仏さまに対して「報恩感謝」することだけなのです。

天国において、浄土において、神の愛の中、仏の慈悲の中で、神(仏)とともに生きることになるのです。感謝しかありません。それが神(仏)にとっても、願を果たす(大願を成就する)ことであり、喜びに満ちることなのです。

仏さまの「本願」と、神の「必ず救う」という決意はよく似ています。
宗教の教えることの根本は同じなので、キリスト教と仏教も同じような道を説いているのです。
神の愛にゆだねましょう。衣を洗い、門をくぐって、御国に入る者は幸いです。
自分を捨てて「南無阿弥陀仏」を称え、慈悲の心に帰命しましょう。

2025.12.5


【考察】

仏教とキリスト教に関する印象を書いてみますと、

キリスト教は神の側からの啓示、神からつかわされた人(神の子・イエス)を通して直接語られた神の言葉なので、いたってシンプルである。神はこうである。真の愛はこうだとはっきりと語られる。経典は「聖書」一つである。教派が分かれているのは、解釈の違いで分裂しているだけです。

それに対し、仏教は人間の側から真理を探究してきた。悟りを開こうと修行を積み、座禅を組んで考えに考えてきた。哲学的な要素を多く含む理論である。ああでもない、こうでもないと思考を重ねるうちに膨大な数の法典が出来上がった。念仏のようなシンプルなものから、曼陀羅のように広大で複雑なものまである。人間側の方法論はいろいろある。そして覚者を崇拝する。

思考の方向性が違うけれども、全く矛盾しているわけではない。最終的に同じ答えに行き着くはずである。真理は一つなのだから。ダイレクトな聖書の教えに、仏教の要素が加わることにより、より真理に対する理解が厚み(深み)を増す。人間のさまざまな思考に対応できるようになる。東西すべての文化を包み込むことができる。

他宗教についても同じである。そのおかげで、真理が深みを増すのである。

信仰とは、神(仏)と私の一対一の関係なので、私の中でそれらの教えが整理され、一つになっていればそれでいいのです。各々が道を見つければいい。

真理は一つ、神は一つである。いくつもあったのでは真理とは言えないし、矛盾していることになる。多元論、多元世界になってしまうので、分裂しても仕方ない。もし多数あり、異質であるなら、完全な調和や平和は難しくなる。違うものが共存する、バランスによって成り立つ危うい世界となる。どちらかが「違う」と言ってしまえば、「はい、さようなら」になってしまう。
元が一つであるから、共通項が見つけられる。本質的には一つなのである。
そうでない場合は、いつまでたっても平行線であり、あるいは離れて行ってしまう。そのように、真理がいかなるものかと言うことは大切なことなのだ。

「多様でありながら一つ」。そうあるためには、本質的な教え、根本にある愛は「一なるもの」でなくてはならないのです。

【考察、その2】 仏教について

以下は私の個人的な見解(推察)を含みますが・・・

仏陀が求め、考え続けてきたのは、「苦」と何か(苦しみの本質を見極める)ということ、その苦からどうすれば逃れることができるのか(苦を滅することができるか)ということであった。その智慧を得て、涅槃の境地に立つことが目標だった。そして、覚者になることによってそれを達成したのである。

仏陀は悟りを開き、覚者となった。確かに、個人としては安らぎを得たのだろう。しかし、それが本当の完全な救いではなかった。人間はそれだけではなかった。

覚者となった仏陀は無心(清浄な心)となり、やがて見え始めた(感じ始めた)のである。仏さまの存在と慈悲の心が。人に幸せをもたらすのは、智慧だけでなく慈愛なのだということ気づいた。仏の中に「四無量心」を見出した。

宇宙の大いなる生命の中に「四無量心」(慈悲喜捨)があることを感じ取ったのである。
ここにおいて彼の哲学は宗教へと飛躍した。仏の核心へとつながったのである。
(もしそうでなければ、仏陀はただの思想家で終わっていたかもしれない)人間仏陀の教えから、仏の教えへと昇華した。

それ以来、仏陀自身も慈悲の心に目覚め、人々の救いの為、生涯を布教に務めた。
自分だけでなく、他者の幸せ、みんなの幸せを求めたのだ。

だから後の仏教には、「慈悲」を象徴する観音さまや阿弥陀如来が登場する。
衆生に慈悲とゆうものがなかなか理解されないので、見える形にして表現した。(信仰の対象とした)
その観音さま、阿弥陀さまを念じることによって一つになりなさい。一つになって慈悲の心を譲り受けなさい。慈愛が人々に幸福をもたらすだろう。そのように教えた。

仏陀が得た智慧を基盤として、仏(神)さまの心、「慈悲の心」に至るのが仏教である。
救いは仏さまの慈愛にあり、仏さまと一つになることによって、自分も慈愛を宿す存在となるのである。これが「即身成仏」である。そして、慈悲の心がもたらす世界が、「浄土」なのである。

もし、智慧がなければ救われないとするならば、知能の低い人(知的障害者)は救いの外に置かれることになる。(対象外である)しかし、慈愛によって救われるとするなら、一人ではできなくても、愛する人と愛される人がいて、両者が一つになればともに救われることになる。(親子で救われる)喜びの世界に入ることができる。救いの扉は、愛する人と愛される人、二者で一緒に開くものなのである。相対の世界では、愛し愛される関係があって、一つになったとき救いが完成する。

愛することさえできたなら、悲しみを癒し、ともに救われる道が開ける。

自分にその愛がないとするならば、念仏を唱えることにより仏さまと一つになり、仏さまの慈悲の心を分けて頂けばいいのである。そうすれば私自身も「慈悲」となるのである。仏さまには愛せないものなどない。仏さまが私に宿って愛してくださるのである。

これが仏教のもたらす救いである。

2025.12.11